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194n)回想G

◆ 5月14日



手術しなければ、普通に来ていたであろう母の誕生日…



今年は何を買おうか?

と、考えていて、
入院途中からまだリハビリ中で退院できない事を見込んで
簡単な介護用の車椅子を考えていた。







今日の誕生日に、
あの日(5月7日)を回想してみたいと思う。



--------キリトリ-------


7日は、最愛の母が永眠した日…



私にとって、何かが大きく変わりはじめた日になりマシタ。



母の具合が安定せず、
中々単身赴任先に帰れない兄から、
朝携帯がきた。



兄『今病院からで、少し早めに病院に来てだって。』

私『え?危ないの?』

兄『そんな焦った感じではなかったから大丈夫だとは思うよ』



5月1日の夜中に病院から呼び出されて以来、まともに寝た事なんて一度もなかった。

1時間おきに携帯がなってないか?着信をチェックする日々だった。

実際、早朝6時に着信があった事もあり、
そんな時は決まって良い話しではないので、
心臓が止まりそうなくらいデシタ。

着信がある度に毎回 震え上がる気持ちデシタ。



この日の朝は、兄に言われて仕度をして…

土曜日で子供達は皆寝ていたけど、

何だろ?妙に胸騒ぎがして…

皆を起こして連れて行く事にした。



家を出て、実家に泊まってる兄貴と兄貴の長女をひろい、病院へと向かった。



病院に着くと防災センターで面会の札をもらうんですが、毎日きてるから、おじさんと顔なじみになりマシタ。



2階に上がり、ICUの待ち合い室からICU内へ内線をかけると、
いつになく早口で

『入り口にどうぞ来て下さい』

って、言われた。

手を消毒して、入り口に入って母が居る方向を見ると…



衝撃的な光景が、私の目に飛び込んできた



よくドラマで見る心臓マッサージをしていたのだ!


後から聞いた話しだと、
ICUに1番に入るなり
私がイキナリ走り出してビックリしたって。。。

残りの皆も、事態を察知して続いて走ったそう…



母が亡くなった直後は、この辺りの記憶が全く無かったけど、今はほぼ思い出してきました。

私は、冷たくなりはじめた母の手や足を必死に摩り

『お母さん、いっちゃ嫌だ〜』

『お母さん、帰ってきて〜』

と、必死に叫んでいた。



きっとICUに響き渡るくらいデカイ声だったと思う。



数分後、子供達にも声をかける様にお願いした。

心臓マッサージで母の胸からは大量の血が溢れ出し、ガーゼを何度も変えていた。



凄く惨い光景だ!

医師が代わる代わる交代しながら、心臓マッサージを続ける。
目の前に繰り広げられる光景に、末っ子はしゃがみ込み
目を持っていたリュックで覆い
号泣していた。


これも後日談だけど、辺りは血の臭いで凄かったらしい。

それは今も私の記憶にはないデス。


長女は、足や手を摩りながら

『おばあちゃん!
おばあちゃん!』って声にならない声を発していた。

長男は
何度も手で涙を拭いながら

『おばあちゃん、死なないで』と…

心臓マッサージをして脈を見るとない…

あの画面が
0━━━━━━━━
ピー
って。

そして医師が交代する。
1時間続けると告げられ、
最初は行かないでって叫んでたけど、
40分を過ぎた頃、
フッと…
もうダメだって思えた…



それから、父の時に言えなかった

[ありがとう]

を言わなきゃって思った。



私は、子供達に

『おばあちゃんに、今まで色々と沢山ありがとう』って言いなさい。

まだ聞こえてるから、後悔しないように。

と、言った。

長女と長男は

『おばあちゃん、今までありがとう』

って言った。



末っ子は床の角にしゃがんだままだ。

無理もない。

入院前日に元気な母と出かけていたし、

入院中も
[死]
なんて事は全く考えてなくて

『おばあちゃんが元気になったら…』
と、
しきりに[タラレバ話]をしていたのだから…。



だけど脇を持って、何とか立たせて、おばあちゃんに最後のお礼を言わせマシタ。



悔いのないように…と



兄貴は

『何でありがとうなんだよ』

って、諦めきれない様子だったけど、
目の前で血まみれで身体がむくみあがった母を見て
諦めるってより、
もう心臓マッサージをやめてほしくて…



50分を過ぎた時、兄貴に

『もうぃぃょ…
お母さんが壊れちゃう…』

兄貴も同意して医師に止める様に促した。

ちょうど女医サンがマッサージしていたケド、
ICUの医師に肩を叩かれ止めた。

ICUの医師が
脈と心音の確認
瞳孔の確認の後

『午前10時12分…
大変残念ですが
お亡くなりになりマシタ』
m(_ _)m

と告げた…。



皆、泣き疲れた状態で母を見つめた。



まだ若干暖かい母の温もりを身体に焼き付けたくて探した。



これも後から聞いた話だが、
担当医と外科部長は、
相当ヤバイ事になったって顔をしていたらしい。



いらないクダを抜くので、
その間、医師から話があります。
と言われ、
兄と私は別室に通された。



母の手術から治療に関して、多々納得いかない部分があったケド、
母がもう大丈夫って安心できる時か、
又は、最悪死んでしまった時までは、
命を預けているから何も言わないと決めていた。



むしろ
頭を下げて

『母を助けて下さい』

って懇願してきた。

ケド、亡くなった後の説明で、兄と私の気持ちにセーブがきかなくなった。



【手術の失敗】



この言葉に、担当医は、一瞬まゆを動かしたが、否定はしなかった。

手術が下手なんぢゃ?や、
経験不足なのでは?
と言われても、黙っているか、頷いているかだ。

まだ母が生きていた頃、何かと自分達は悪くないとアピっていた外科部長も、
言い返す言葉がないようで、

『おっしゃる事はよくわかります。
私がそちら側だとしたら同じ事を思います』と
言った。

後から聞くと、ここまで認めるのは珍しいらしい。

だから医療過誤なんだと。



私は、泣きながら、母の無念を訴えた。



最初から全て見てきてる私と、最初からずーっと関わってきた担当医。

私がどんな気持ちで、母の回復を信じ、祈り、願っていたのか…彼は痛いほどわかっているはずだから…。



今にも倒れそうだったけど、最後に

『カルテを全て提出してよ。
間違っても抜いたり、改ざんしないで。』

と言った。

医師達は、頷いて約束した。

少し落ち着いてから、病理解剖をお願いされた。

病理解剖は、内蔵全てを身体から取りだして顕微鏡で細かい細菌までも調べたり、
死の直接の原因などを病理の先生が調べる事です。
私は、脳と心臓は、肉体があるうちは
[記憶]や[気持ち]が残ってる気がして取られるのが嫌だったけど、
曖昧な流れしか説明を受けてないから
原因は絶対知りたかった。

なので、頭(脳)以外の解剖を承諾した。

その後、職場や友人など沢山連絡した。
話をする度に涙が止まらなくて
声がつまり
上手く話せない。

日程がまだ決まっていない為に報告だけになってしまったが、実際は信じられない気持ちでいっぱいだった。



ユカ




193n)回想F

◆ 5月10日



嘘みたいな中
通夜の日が来てしまった。


もうよくわからない私がいる。


昨夜は何も話す事のない母と二人で過ごした。



死体って言ってしまうとそうなんだけど、
当たり前に怖いって感情はない。



こんな親子水入らずな時が来るなんて…



綺麗にお化粧してもらって、
ちょっと明るめの口紅が光ってる…



ほんのりピンク色した頬を触ってみた。



凄く冷たい…

『お母さん、あのね…』

って、誰も見てないから、
甘えた声で色々な事を話した。



独り言だけど、
なんか心で会話してる感じに思えた。



昼過ぎに、斎場に行くので子供達を呼んだ。

私達家族と、マンションの近所の方、管理人さんが見送りに来てくれた。



もう二度と肉体としてここに来る事はないんだ…



とても悲しい気持ちになった。



近所の人は泣いてた。



そんな一人一人の想いを掻き消すかのように、
クラクションが長く高く響いた…



私も仕度をして通夜の2時間前に斎場に到着した。


兄貴は盛大にする気はないと、全ての方を断ったらしい。

兄嫁も。


私は、中・高の友人と社会人になってからの友人、約20名ほどが来てくれた。


母は、二年前に定年していて、今は一戦から退いていた為、
30〜50名くらいと見込んでいた。



そしていざ式が始まると…

凄い人が…


母の知り合いだけで100人以上…


とにかく凄い人だ!



こんなにも沢山の方々が、
母を偲び会いに来てクレタ。



中には、30代くらいの男性が号泣してる。

どんな気持ちなんだろう?

親族では、最初から最後まで泣いてたのは私だけだったラシイ。



改めて自分の泣き虫ぶりを知った。



焼香が終わり、受付をお願いした友人と食事をした。

後から母をよく知る友人が駆け付けてクレタ。



皆、突然の訃報に、本当に驚いていたみたいだ。

母は今どんな気持ちで何を思っているのかな?



母の職場で、色々見えちゃう方がいるみたいなんだけど…



『お母さん、死んだって思ってなくて、毎日家と会社を往復してるよ』



って…。

それ聞いていたたまれなくなった。



やはり、一日も早く、母が何故死んでしまったのか?

真実を知りたくなった。



明日は母の肉体とのお別れだ。
冷たくても肉体があると気持ちが離れらんない。
だから骨にしちゃうのかな?



明日、私は大丈夫だろうか?…







◆ 5月11日



とうとうこの日の日記になってしまいマシタ。

今日は、24日日なんですが
落ち着いたと言うより
日一日と、母への想いが募ります。



告別式の日
午前10時〜11時
通夜も告別式も雨…

私には母の涙に感じられマシタ。



もっと生きてたかった…って。

通夜とは違い、身内とごく親しい人達…
昨夜来られなかった方数人の参列で、しめやかに行われマシタ。



私は変わらず、ずーっと涙が止まりません。

昨夜の副住職よりも、今日の住職のお話や声が胸に響きマシタ。


今日でお母さんの肉体と別れてしまうと思う悲しみと、
何でこんな事になってしまったんだろう…って、
認められない気持ちや、
やりきれない気持ちが更に追いうちをかけます。



最後のお別れで、棺に花を入れる時に、
スーツやジャケットや靴。
口紅や大切にしていた母から周りに対する感謝を書いた紙。
後は、私達身内がそれぞれに書いた手紙だったり。。。

その全てが埋まって見えなくなるくらい…
溢れ出しそうな大量のお花を母の顔以外の場所に入れマシタ。



棺を閉じる前の数分間…
私は多分叫んでいた様に思えます。



またいつか会う日まで待っていてね
お母さんの子供に生まれて幸せだった
たくさんのありがとう

ナド…

心ん中で想いながら。。。



今はハイテクで機械で移動して焼場に入り骨になるから
あっさりはしているけど
焼けた後の骨を見ると
白く綺麗な貝殻のようで…

闘病生活もなく
たった19日で死んでしまったのを物語る様に、しっかりと…そして健康的な骨がそこには存在した。



決して大柄ではないのに、
健康だったからなのか?
骨の量が多い。



骨壺いっぱいに骨は納められ、帰宅した



後に骨壷に眼鏡も入れマシタ。



肉体がなくなり、骨になった時に、少しは気持ちが変わるかと思ったケド
そんな事はなかった。。。



やはり信じられない気持ちでいっぱいだ。



実家の父の仏壇に手を合わせ、
母が成仏できる様にお願いした。



残った私がやるべき事は沢山ある。



裁判も、人に寄っては変な目で見る人もいる。



刑事裁判と勘違いしているのかな?

私は、あくまでも民事なつもりだ。


そう…

最終的に和解するつもりだ。

お母さん、こっちの事は任せて天国でゆっくり休んでね…



ありがとう








ユカ



192n)回想E

◆ 5月7日



母が死んでしまった。

午前10時12分…



元気だったのに、
手術の失敗から、
たった19日…



最後の残りの6日間は意識もなく、
何も語らないままでした。。。



私の記憶の中で、最後に言った言葉が

[烏龍茶]デシタ。



18日の手術から、口から喉を通り何かを飲み込んだ事は一度も無かったけど、

きっと、口の中が渇いていたんだろう…

さっぱりしたいから、烏龍茶がよかったんだろう…


もう弱々しくしか発する事ができない母に、

『今は飲めないんだよ』

なんて絶望的な言葉は言える訳もなく、


『わかった!
後少しだけ待ってて』


と、声をかけた。


母は小さく頷いた…


この日の事は一度には書ききれないので、
また別の日に書き記したいと思います。



2011年05月07日

午前10時12分

母、永眠…



翌日は、母の日。

一週間後は母の誕生日デシタ。



今、悔しさや、やりきれない気持ちを胸に書いています。



今後裁判をする予定で動きマス。



簡単な手術が失敗した事で母は死んだ。
ふに落ちない事だらけです。


どうして母は死んでしまったのか?

事実がわかって余計辛くなったとしても、
私は知りたいです。



知らなきゃいつまでもこの日から動けません。



私は仕事を辞めました。


とにかく動きます。






◆ 5月8日



日記に記してきたので、
ちゃんと書かなきゃっておもいます。



母が、昨日永眠しました。

二十日間で、ほとんど会話もできないままいっちゃいマシタ。



ここ(Lサイト)で、母の回復を祈り、
私を励ましてくださった方には、本当にありがとうございました。



母が居ない明日を考えた事がなくて、
今も、何だか信じられません。



悲しみが1番だけれども、
時折襲う悔しさに、
胸が潰れそうになります。



明らかに手術ミスからの死で、
母が他界した後、先生方には、今まで我慢してきた言葉をたくさん投げつけました。



母の無念と、クダだらけで普段の三倍にもむくれあがった姿で命も奪われ返された事に、



『こんな姿で返しやがって!』



とは、思いますが、今はまず、母をきちんと見送らなきゃいけません。



通夜、告別式の日が決まり、細かい事をこれから決めたりしなくちゃいけません。



悔しさは、一旦置いておいて、
母の為に最期にきちんと見送ってあげなきゃと思います。



ここ(Lサイト)での縁て凄い。



いろいろとわからない事を聞けたり、
励ましの言葉やお悔やみの言葉を直接携帯で頂いたり…



心肺停止からの蘇生に、
私も子供達も、泣き崩れながら、
手や足を必死に摩り願ったけど、
母はいってしまった。



言いたい事はまだまだあって、
もちろん、母、本人と最期にもう一度話したかった。



死ぬなんて考えずに、
前を向いてきたけど、
今は立ち止まり動けない状態です。



母の死を受け入れられていません。



今週、来週と子供の運動会もある。



全て頑張らなきゃいけない!

娘として

そして、私も母なんだ。

そう…母として…



突然の壮絶な二十日間での母の死。

14日の誕生日と、翌日の母の日を目前に母はいってしまった。



今は、ただ悲しくて悲しくて…
やりきれない気持ちです。



日記を見てくださってる方、赤裸々な気持ちを書き記す事をお許しください。



合掌…



◆ 5月9日



嘘みたい。

お母さんが居ないなんて。

昨日は、葬儀の手配をして、葬儀屋さんと打ち合わせをした。



どんな式にしたいのか?



まだ仕事をしてたから、
[家族葬]ではないので、
友人にも連絡した。



友人、誰もが驚いていた。

母を知る人は、私が話してる間に、
『何それ〜悔しいぢゃん』
って、電話口で泣いてクレタ。



明後日、母の身体がなくなる時、
私は冷静に居られるか?


自信がない。。。


末っ子だけは、今日学校に行きます。


上二人は、かなりショックらしく、最初は行くと言いながらも、昨夜休むって…。


きっと、日が経つにつれ、悲しみが増してきたよう。



そんな中驚いた事があった。



L繋がりでの二年ぶりの再会。

彼女は、『また会える時が来るかも知れない』って思ってたって。

私は、疎遠になり、
もう二度と会えないって思ってたから、昨日会えた時、会った瞬間抱きしめてくれた時、

『私に任せて』

って言われた様な、
凄く落ち着いた気持ちになれた。



今日、母を綺麗にメイクしてくれるのにまた会えたなら、
母の話…私の話…話したいな。



もちろん、彼女の事も聞きたい。

彼女に今回会って、葬儀をお願いする事が、
私にとって、母が再び結び付けてくれた大事な[縁]と思いたい。



緩やかなる流れの中で、
お互いが老いるまで、
無理なく付き合っていきたい。



今回、こゆ事になり、
私の家族や全てをイキナリ彼女に見せる事に何のためらいもなかった。



これも運命なのかと思いました。


Lでの縁…


馬鹿にできないよな〜マジで。


今早朝ですが、今日も一日忙しい!



いろんな感情が湧いてくるけど、まだまだ、気が休まるのはずーっと先だと思う。


頑張ります。





今回、私を支えてくれたのは、本物の繋がりデシタ。

リアル、バーチャルは確かにあるかも知れない。

けど、リアルだから助けられる訳ではなく、
願うことや、何かしてあげたいって気持ちは、
理屈ぢゃなかった。



心配してくれた皆さん、ありがとう。

では、今週も頑張ってこ♪





ユカ



191n)回想D

◆ 5月4日



生きていくのに大切な場所。





心臓

肝臓

腎臓

血液



このうち4つが異常な数値

2つも微妙。

常に危ない状態。

5月は、
どうしてもな開店から2時間の出勤が7日だけ…


来月はお金がピンチだ…


けど、母の命には何もかえられない。


生活にはお金は必要

最低限の生活をしなきゃ

てか、被災地の方の生活に比べたらまだまだ節約や我慢はできる



皆さんがそうしたら経済は壊れちゃうから、
私みたいな
そうしなきゃダメな人がそうすればいい。

(゜∇゜)


(・∀・)←私



今日から節約生活開始します



暫くは、
ランチは、牛丼の並か、カップ麺…はたまた食パンのトーストで



弁当作れって

(´ω`)



自分の味に飽きました(汗)



ケド、
トイレットペーパーの長さを
[大]ん時と[小]ん時に決めたり、
お風呂にペットボトル沢山入れて、
湯量を増やした気で居るのは難しいカモ…

(ノ_・。)


イロイロ自粛しなきゃ。


男は…


自粛できません


って…

会いたい…


こんな時こそ。





◆ 5月5日



今朝6時また呼び出し…


輸血…


輸血…


また手術したい?


結果、麻酔の先生からダメだと言われた。


今、手術したら、間違いなく、命を落とすと…。


もはや

延命だろ?



お母さんの身体が悲鳴をあげてる。


無念の気持ちが…
もう意識がない中でも
ジンジンと伝わってくる…。






悔しい…



今度は他臓器不全になりそうだって…


なんで、一週間で退院できるポピュラーな手術でこんな事に。。。



毎日説明を何度も受けて…
納得できない気持ちをお腹にしまい込み


『どうか助けて下さい。』


と、頭を下げてきたけど。



今日、兄貴がそうしてる中、

アタシは、悔し涙を流して、
唇をかんで、
両手を握りこぶしにした。


とにかく悔しかった。


人口透析だの、なんだの…


あんなに元気だったお母さんの身体は、
もうボロボロだよ。。。


いい加減にしてくれ。


いい加減失敗した事を認めろ。


生きてるうちに母に謝罪してくれ!


今日は、朝6時半から、面会20時ギリギリまで病院にいた。


お腹をすかせた子供達には、
オリジン弁当…


文句一つ言わなくなった子供達が、
とても成長した様に見えた。


嬉しい半面、母の事がきっかけになるなんて…と思った。


お母さんの命の炎がヤバイって、
諦めたとかぢゃないけど、今日感じた。






神様…


助けて下さい…







◆ 5月6日



振り返ると母が亡くなる前日。


腎臓機能が停止…

あのヤバイ手術から言われてはいたけど、何とか頑張ってきた母の腎臓がダメになった。



あれからも、多量の輸血を続けてるのに、
人口透析って…



タイミングが金曜日なのは、対応できるスタッフが沢山居るからって理由もよくわかる。


ケド、私には、たかが簡単な手術と言われて一週間で退院するはずの母が、
何で人口透析?
ってなるんだ。



空気的に、それを言ったらマズイのはわかってたから言わなかったケド。


カテーテルを首?肩?から入れたケドダメで、
足の付け根から入れ直し…

上手く血がまわらない。。。



血がサラサラで血が固まらない。
だから、出血が酷くて、血を固める血しょうばん?まで入れてるのに、

透析って…逆に血液をサラサラにしなくちゃいけない…



ダメぢゃん…


ケド、やらなきゃ確実に死を意味するから、ドクターは必死だ。

ICUではいつも重体患者?の位置に居て、
周りは亡くなって居なくなるか?

良くなって、身体を起こせたり、食事を取れたりする場所に移動するか?だ。

と思ってたら…



この日から、人口透析をする事と身内の面会人数が多い事を理由に、

ICUの中の個室?

みたいな場所に移動した。



ここって…

ヤバイぢゃん…

透析が上手くできずに処置で待たされる事ばかり。



結局この日は、夜中の10時まで病院に居て、
母の顔を数分間見て帰宅。



私の身体も限界が近づいてきた気がした。



それは、
見る見るうちにやつれて行く私に、
ICUの看護士さんが、

『大丈夫ですか?少し休まれた方が良いですよ』


と、声をかけられる回数が異常に増えた。
きっとヤツレまくりで酷いんだろう…

化粧なんて忘れたわ…

私の身体より母!

後悔ばかりだけど、これ以上後悔したくない。

何とかもう一度意識を取り戻して欲しい。

ただ
ただ
その気持ちだけが、私の生き甲斐になってた。

母との永遠の別れなんて考えられない。

母が居なくなったら生きていけない。

5月に入ってからは、そんな事ばかり考えながら過ごしてきた。



身体ぢゃなくて、心がぶっ壊れそうだ。

精神的にもかなりヤバイ状態だと自分なりに分析していた。

そして、とうとう明日、その永遠の別れをしなくてはいけなくなるとは…






ユカ



190n)回想C

◆ 5月1日



夜の日付が明日に変わる頃、容態が急変。

病院から呼び出された。

夜中に一人焦りながら着替えて病院に向かった。



とても危険な状態。



わかってる



わかってるけど…



手術に1時間、一週間で退院できるはずだった。



ここの日記にも書いてるけど、写メってぃぃょ!
くらいな和みムードで
前日手術の説明は終わった。



なので、私も、そして今は意識さえない母はもちろん、
疑う事なくそう思っていたに違いない。



しかし、まさかのまさかなミス。



兄貴が大阪な為、全ての窓口がアタシだった。



けど、一週間経った頃、誰にも言えないストレスからか?胸の辺りが苦しく、不眠気味に。



安定剤は二回飲んだだけでやめた。



めまいはなくなったから。

そして、とうとう兄貴と、母の親友に全てを打ち明けた。



気持ちが少し楽になったが、兄貴が3日に来ると言う事でより安心だと感じてい
た矢先の呼び出し。


原因が未だわからないと言う…。



が、血液の病気に?



元々は血圧が高いのに低い。



上が50って…

低すぎだろ?



危険なので、兄貴に明日朝一で来る様に連絡してと言われた。



深夜に、兄貴、母の親友、明日仕事予定なので店長に。兄貴の嫁に。。。



パニックになりそうだけど、何とか冷静に落ち着かせて、2時頃には帰宅。



寝れなくて…



母が入院してから、携帯はマナーにしていない。



唯一、病院&ICUの中だけは電源オフ。

携帯の着信がある度、
心臓がバクバクする。



朝方までろくすっぽ寝れずに朝がきた。



会いたい人はいる。



甘えたい人はいる。



だけど今は我慢だ。



◆ 5月2日



夜病院から連絡が来た。



相変わらずICUに居て状態がよくなくて…
もう本当何で?



入院前の元の体に戻してくれって
何度となく
医者の首根っこ掴みかかりたいって思ったことか…



ケド、命を預けてるから…できないや…



失敗して最善は尽くしてくれてるのはわかるけど

深夜の呼出しで


[覚悟]


って何よ?


だって元気だったし、
手術もしなくても良かったけど、
簡単だし、
後々何か起きたらって、
大事を見てやった手術だったはず!



医者のオススメで手術した結果が今だ!



手術ってさ、今以上に良くなる為にするもんぢゃないの?



長生きする為に
未来の為にするもんぢゃんか!



てか、文句なんてここにしかぶつけられないケド…



とにかく、生きててくれたらぃぃ。



生きてさえいてくれたら、
何年かかってもまた回復してくれたら
女同士したい事がまだまだある。


ずーっと仕事で生きてきたお母さんと、
のんびり親子がしたい。


生きて


生きて


生きて


神様お願い


お母さんを助けて下さい。


毎回母のクダだらけな身体を見る度に変わってあげたいって思う。


血圧上が50…輸血してる。



人口呼吸器が外れてぬか喜びをしてしまった27日。



ICUに居る、この一週間頭ん中はお母さんだらけだ。


疲れか?

ストレスからか?

蕁麻疹がまたでてきた。



私は、自律神経を気をつけなきゃいけないな。



今は、私が、絶対倒れるわけにはいかない!


お母さんが助かるまでなんだってする。



お母さん。


生きて!


数時間後…



始発の新幹線で兄が大阪からきた。



兄、兄嫁、母の親友と私。



私以外はみな病院の母とは初対面。



一同、信じられないって顔。



その後、一同泣いた。



兄貴曰く、
アタシの言ってた事がやっとわかったって。



てか、思っていた以上に酷い状態でショックだと。



兄『お前、毎日よく居られたな。俺はあんな姿ずーっとみたら倒れるだろうな』



末期癌の父の姿を見てるから、あの時より甘い考えでいたらしい。



私が、涙が枯れるまで、
車や布団の中、
待ち合い室などで泣いた事は兄貴は知らない。。。



今更、言う気もしない。。。



が、いよいよ危険な状態と言われたので、北海道の母の妹に知らせた。



すると…

『ユカチャンがついて居ながらなんで!!』

責められた。。。



その言葉が、弱った心のど真ん中に突き刺さった。。。




◆ 5月3日



人生でこんな選択をしなきゃならないなんて…


そんな事、想像した事もなかった。


私と兄貴と兄貴の妻、長女、母の親友で、病院で待ち合わせをした。


すると、主治医から


『お腹の中をみたい』

そう…手術したいと言ってきた。


昨日の段階では、もはや手術も無理だと言っていたのに…


昨日より血圧が安定している今が、ラストチャンスだとも言った。


もちろん、手術は身体に凄い負担がかかる。

今の母に耐え切れるのか?
とても不安だった。


ケド、手術しなきゃ確実に[死]があると、あの時、私も兄貴も思ってた。


昨日、今までの経過を、兄貴と兄貴の妻、私の前で話した時、
主治医ぢゃなくて、外科部長が、
私達に

『お母さんは今回の手術をしなきゃ、危ない状態になってた』と、

自分達には非が無いアピールを必死にいきり立ちながら話した。

心の中で

『テメェ、お母さんが元気になったら、覚えてろよ!』


って思いながらも、
今の母の命を預けてる奴だから、ただ聞いているしかなかった。


私は、悔しさで涙が溢れ、我慢できずに、その席を途中退室した。



そして、私達は手術の同意書にサインを。
速手術の準備に周囲が慌ただしくなった。
待ち合い室に居ると、
麻酔科の女医がきて、
私達に唐突にこう言った



女医『今、不整脈が出てきて、血圧が下がりはじめてきました。
麻酔をした段階で命がなくなる確率が50%ありますが、どうしますか?』
って。


胸を開ける前の麻酔の段階で既に命が半々だなんて…


究極の選択だ!


女医『もちろん、危険な状態になる前に手術途中でもやめます。
ただ、術中に死ぬ可能性もあります。』


私達は先程と話しが違うと思い、主治医を見た。


主治医は…

『先程お話しした時は安定していたのですが…』
だって。


兄貴と私は、覚悟を決めてお願いした。


手術前に、意識の無い母に、皆で命を削るかの如く精一杯のエールを送った。


手術が始まり、待ち合い室で誰もが手を合わせ祈った。


3時間…



ホント長かった。



そして、母は生きていた。



母の頑張りに、ただただ涙が溢れた。



その後の説明で、出血が酷く、
院内の血液では足りず、
部長『○○市の血液が、今夜全て使いました』

って。

ムカついたケド、生きてた事に胸を撫で下ろした。



医者の足元は血だらけ。

母の血の気のない顔に涙がまた…





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