真実を知ることだけが幸せではない。
最近、心の底から、そう思うようになってきた。

事実という過去があり、その過去は変わらないけれど、その事実の真意まで私は知らなくていいのだと思う。
それを知ったところで、私の今が変わるわけじゃないし、それになによりプラスになるとは限らない。
私は、悩む前のように、どんな形であれ自分は愛されていたと思っていた方が幸せなのだ。
まあ、愛されてはいても嫌なことは嫌なので、親が嫌いなのは仕方ない。そのことで悩む必要もない。

私が変わったとするなら、その一点だろう。
私の為を思って躾ていたのに、その躾を嫌だと感じ殺意まで抱いた自分は罪深き人間だという思い込みが無くなった…それだけだ。
嫌なら嫌でいい…実際、嫌だったのだから嫌でいい。どんなに私の為だとしても、嫌と感じた自分を卑下する必要はないのだ。

親…少なくとも父親は私を愛してくれていた…そう思う私は甘いのかもしれない。
ただ女の子の育て方が分からなかっただけ…ただ愛情の注ぎ方が分からなかっただけ…そう思う私は甘いのかもしれない。
それでも誰にも望まれていなかった…愛されていなかったと思って生きるよりは幸せだ。

それと同様に叔父のことも、そう思う。
真意など最早どうでもいいことだ。
私は愛されていた。
それが真実でいいじゃないか。
わざわざ傷口に塩を塗り込む推測なんてしなくていい。
可愛がってもらえたのは事実。その事実から短絡的に愛されていたと思ってもいいじゃないか、そう信じてもいいじゃないか。
優しく非の打ち所のない叔父…その叔父に可愛がられた私…そう思い続けて生きる方が私は幸せなのだから…