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葬列そして花束





今宵私は私に戻りました。自我を取り戻した私はかつてない程の活力を持て余しております、小野寺兼島袋です。




時は流るるものだと、ごく当たり前のことを誰かが吐いていたのですが、当たり前とは本当に何処にでも存在していて、そしてどこにも実在はしないのです。昨日までの私は死にました。それは最早今に始まったことではないのであります。



すぐそこにある事実が明るみに出た時、それが私の出港の日。涙こそ出はしないが、何か感銘を受けることがありました。私は私になったのだと、今はそう実感するばかりです。



さて、一昨日から姿を消してしまった彼ははて、どこで何をしているのだろうか。私の勘が確かならば、もうこの世にはいないことになるのだけれど。それでも唯、心の何処かでは裏切りと云う名の逃亡では?と問い質しては返ってこない回答を只管待つばかりです。




どんな事実が発覚しようとも、花束を供える覚悟はもう出来ている。消えていった虫歯菌達にも同じことを言える私にはやはり、適当、ことの重大さを理解することが難解だと首を傾げることでしょう。




まぶたの裏に夢を想像してみましょう。
きっとなんでもない昨日を、仕合わせな明日に変えてくれるでしょう。なんとも目出度い脳内、思考をしていること。




港の風は少しばかり人見知りと聞きました。




本名を告げよ



行動を起こすたびにひとつ、またひとつと鎖が増えていく。そうやって雁字搦めにされていく私の精神と肉体とでは、この世を渡るのには不憫過ぎるのではないだろうか。小野寺です。



自分ルールとは良く言ったものだ。ただ日々を生きて行く中でのくだらない戯言。失敗をすれば恐怖したその日を殺し、成功をすれば此処ぞとばかりに甘い汁を吸う。1日たりとも同じ日など無いというのに。




失敗を恐れて進めなくなることは少なくなった。次はさて、失敗を犯してしまった後の行動に立ち往生してしまう癖を治さねば。過ぎて行く日々は取り返せはしないのだ。反省と成長を兼ね備えて対処していきたい所存であります。



必要とされる事が重要だとばかり思っていたのです、この頃。しかしどうだろう。自分を信じて動く事はこんなにも功を成す。私は少しでも成長出来たのだと実感しているあたり、まだまだ捨てたもんじゃないのだろう。




流れに身を任せるなんて、時代遅れもいいとこだ。これから自分の意思を尊重し、快楽主義者のツラを被ってヘラヘラと人生を謳歌していこうではないか。



糞真面目も度が過ぎればキチガイ。そればっかりは生まれもった能力、心配とは体に毒。死に直結しないほどの物事など無に等しいのです。




今日も今日とて死んで行く。




お晩です。




私はやはりあの時代に生きてい たのだ。そしてこうやってこの時代にやってきたのだから、やるべきは一つ。影響を受ける速さと深さは誰にも負けません。小野寺です。



男女の壁とは何ぞや。強くあればそれはいとも容易に超えられるのであります。そんな陳腐な考えに縛られているからこそ生き苦しむ事になるのだと、そう思うのです。



貴様、汚いぞと罵り吐き捨てる日はそう遠くはなさそうだ。いつの日か独立を目論む我が故郷にご愛着。そうなれば私は琉球の犬と成り果てるのだろうか。否、より良いお国へと誘わん。それが右のお方では御座らんか。



第12師団長の小野寺は戦場を駆ける。小さき沢山の未成年の命を背負って。現場に立つのは男ばかりではない。力が全て、と言わんばかりに殺生道具を振り回す日々です。




明日も私は私。現世と云う名の戦場を駆け巡りたいと、そう明日の私に挑戦状を突き立てて、深い眠りに付くのです。




おやすみなさい、日本の夜明けまで。







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