涼として、凛とする



ここからが私の踏ん張りどころ、と意気込んではみたもののやはり、さみしさは孤独と手を取って私の日常を冷ましてしまう、そんな低温な毎日に溶け込んではいとも簡単に時間を乗り越えてしまうのだろうな、と日々考えを巡らせております。小野寺です。




会えない日々、とか女々しくも考えてしまう彼ですら、日常から消えてしまうと頭の片隅に放ってしまうんだなと実感してしまう。そんな安易なモノだったかしら?あの日の涙はそんな軽い感情ではなったハズなのに。今ではどんな悲劇でさえ、作り笑顔で受け流せるんじゃないか。そんな心境でございます。




さて季節はとうに超えて冬がやってまいりました。この地に上がって早4年。私は何か一つでも成長できているのだろうか。体は後退しつつ、考えや感情はあのころの自分よりは厚みを持つことができているのだろうか。それはなんとも問いただし難い人生をかけた課題なのだろうと思います。



2年後の私計画を考えるのは楽しい。それはきっと遠い未来の私を創造して想像してしまっているのだからだろうと自覚してなお、これはこうであって、これはこうなるハズだと胸を高鳴らせているのです。すこしでもそこに近づけるように、できることなら毎日思い続けたい、そう強く願うのです。




こんなに怠け者の私でも働ける唯一の理由は海を越えてあの地にあります故、私は近くにいなくなった安心感を求めて、ハングリー精神に火をともし、いつかの自分に恋い焦がれながら、もがくのです。





今日という日はこんなに素晴らしい。私にいらなかった日など、一日たりともなかったのだ。今なら大口を開いてそう言える。ありがとう、関係者諸君。私の記憶に住むあなたたち。自問自答の苦しい日々でさえ愛おしい。






さあ、今日の私をどうして愛でようか。







時は金なり、無口は罪為り也




最近はいろんなものに負けそうになる私をまぁ、客観視すればそれはクズの所業。ここから改心せねばと思っては行動には移さないあたり、やはり底辺を生きているのだと実感してなりません。小野寺です。



いろんな人間がいるもんだ。道を歩けば嫌われるような荒くれ者が現実世界に存在したとは。




風邪を引いたと自覚すれば、それは間違いなく風邪なのだけれど。それを気付かないフリをすればそれはまごう事無き勘違いで過ぎるのです。


要は、病は気からとは良くできた言葉だこと。ということです。



手足が冷えています。この冬の寒さはあまり好ましくはないね。体調管理がここまで難しいのかということを気付けたあたり、この風邪は無駄ではないのだろう。




誰か暖めてはくれないだろうか。この寒さを1人で乗り切るには少しばかり人肌が足りないのでは?なーんて、クサイビッチ発言はさておき、彼の愛を確かめるための思考時間くらいは時給発生してもよろしくて?




カンカン感。踏切が鳴り止まないうちは、私のこの焦燥感と虚無感はなくなりはしないのだろうな。





流々、季節もしくは人情




季節の流れは、意識すればするほど遅く感じてしまうのに、楽しさにうつつを抜かし羽目を外しているときこそ目にも止まらぬ速さで過ぎ去っていくものなのでした。小野寺です。


今回こそ例外ではなく、今か今かと待っていたあの日も、会えるのを待ち焦がれていたあの人も。過ぎてしまった今、一人の部屋では虚しさとニヒルな空気を纏いながらぽつぽつと心境を打ち込むのに集中しております。



親しい人にこそ我の強さを打ち付けてしまうのですが、それを嫌に思われないかがとても心配でなりません。自己愛と自己嫌悪のはざまで私はいつまでも揺れているのです。


朝はいつだって白いのです。それを実感させるように今日もまたやさしさに包まれて目を覚ますのでした。そのいつかの朝と重ねては、幸せを瞼の裏にしまい込んで、日常に持ち歩きながら、いつもすぐそばに彼を置いておくのです。


距離のある私たちだからこそ、こうでもしなければうっすらひっそりと知らぬ間に消えてしまいそうで。目に見えないものだからこそ、重宝したいと丁寧に心にしまっておきたいと思うのです。



信頼を薄めてしまうような考えなんて、明日のもえるゴミにでも出してしまおう。私は自分以外に信じるべき人が必要なのだ。いま、ここなのだ。


ああ人生、なんだか順調すぎて怖いですわ。
明日も明日とて、私なんだろう。





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