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わんねすとうとし

自分の恐怖観について考えてみた。

ずっと怖かった。

漠然と怖かった。


生きることが。


その正体って、
不安だったり未知への恐怖なわけ。

さらにその正体を分解すると、人との関わり。

自分が脅かされることもそうだし、いま気付いたのは人同士がわかり合おうとしないこと。

いわゆる決めつけ。


ずっとこびりついていた罪悪感の正体。


自分を正当化して相手を悪だと決めつけるから。


例えば、善意のつもりで何かをする。
相手にとってはありがた迷惑ってやつだったとする。


そういう時ってさ、
やっぱり自分が正しいっていう空気が出るじゃない。

どこか他人を責めるような。


ええ、そうです。


そういうの一つ一つ気にします。


自分に悪意があって相手に嫌われるなら仕方がない。


でも、善意なら辛いよね。


ただ伝え方が噛み合わなかっただけ。


はふぅ。


まあ、原因それだけじゃないけどさ。


罪悪感には同じだけの光を

昨日、思った。


どうせ消えないんだから、
同じだけの光を当てて緩和したら良い。


良い自分も悪い自分も両方あっての自分。


自分、自分うるせーな。



学校を嫌っていながら、
卒業後するのも怖かった。

この先、どれくらい嫌なことがあって、嫌な目に合うのだろうかと。

学校なら責任もないから。


わかり合えないこと、
誤解されること、
そのために取らなければいけない方法や手段を考えること。



しんどい。



でも、在ることに意味がある。

最近、よく思うこと。

場所にしたって、
誰も来なかったとしても
そこに在ることに意味がある。

だって、なかったら行けないんだもの。


在ることに意味があるんだよ、


自分。


猫、いや動物は自分の存在を疑わない。

だから、自殺も必要ないんだね。

人は社会や他人との関係に価値を見出だす。


それが素晴らしくもめんどくさい。

だから、たまには木々や空を見ることも大切なんだね。

うん、
バスの外の景色を見て思った。


日々の多忙さに殺される。

心を亡くすと書いて忙しい。


命は有限じゃないからね。

有限じゃないのにね。


何に行き急いでんだって話。



ボランティア行って来た。

何をしたわけじゃないけれど、良いのだと思う。

仕事を休んでボランティアに行く。

自分にとってはすごく良い。

平日の昼間からのんびり行動だぜ?

こういう時間って大事。

何をしたわけじゃなくとも。


どのくらい続くかわからないけれど、四季を眺められたら良いな。

家にいながらも落ち込める文明の開花

話題:今からでも遅くない、絶滅してくれ。


昔、ものすごいドッジボールが嫌いだった。

いまはやる機会もないからありがたい。


弱者を判断してボールをぶつけてくるとか。

小学生高学年ともなると、男女で力の差も出るし。

わたくしは常にガイヤ希望でしたなぁ。


一度、ストレスで逆剥けガリガリやったら、手が血塗れになって、意気揚々と先生に言いに行ったのを覚えている。


手が血塗れになる方が良いくらい嫌いだった。



今日は残酷な事件の動画やらを見まくっていた。

おかげで家にいながら人間不信。


何がしたいんだ、アンタ。

いや、わかっている。



結局、人生なんてドッジボールじゃないかと。

力を持たざる者は逃げるしかないんだ。


目立つとやられるから。


だから。


生きることなんて罰ゲーム。

生きることが素晴らしいだなんて、口が裂けても言えない。


何が良くてこんなクソめんどくさい人間をやってるんだと思う。


他人の生い立ちを見ていたって思うことはあるのに、自分ともなるとあうあうあー


忌むべき行為だが、
そうしたのは不特定多数の意思の結果。




怖いんだ。


他人が自分を脅かすことが。

優しい人に目を向けたら良いとは思うが、悪意があることから目を背けてはいけない。


最近、人の優しさに触れる機会が多かったから、残虐性を垣間見たのは良かったかもしれない。


忘れちゃいけない。
自分を守るためにも。


ドッジボールのように、
人に敵意を向けられることがあることも。
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