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29日。納棺の儀



高熱〜祖父の訃報〜から体調が優れなく、こんな時間に起きています。
書きためてたせいで、ぐちゃぐちゃのテンションのものを連投してすみません。


人一人亡くなると、こんな忙しいんか?って位、ばたばたしています。

今日は納棺の儀とやらをしてきました。
斎場が母校の大学の近くなので見知った町にホッとしたり。
綺麗にしてもらっている祖父を穏やかな気持ちで見ていたわけですが、姉が、姉が描いた絵の中で私が一番気に入ってたものを入れたのを見て大泣きして怒られた。
家でも散々「入れないでくれ、絵はすでに描き手の手を離れた時点で鑑賞者のものである、この絵は私が修士制作の小説の題材にもしたとても思い入れのあるものだ!」と喚いたんですが姉の意思は変わらず。
渋々納得したんですが、実際目の当たりにして悲しくて泣いた。(で、姉にまた描けるしって怒られた。芸術は創作者にとって一期一会だばか〜)


手続き等は母、叔父に委ね、あとはひたすら先日の日記にも書いた通り、祖父のメモリアルボード作り。
ネットで調べたら簡単な思い出の写真をまとめたものっぽいなと思ってたんですが、家族の希望もあってかなり大きなパネルの六枚立て。
台紙切りを従兄達にも手伝ってもらい。


あと数時間で式場に運ぶから完成させなきゃなのに終わってないし、誰も起きてないし???
ここ数日で本当に膨大な量のアルバム探し、アルバムの写真を撮影して再プリント、パネルを買いに、折り紙や飾り作り、写真選定、貼り付け…までやった。
あとは説明文書きと飾り付けですかね、詳細名称わかんないのと、貼り終わった写真を替えろと言い捨てて寝た母のせいで終わる気がしない。

この作業と、親族への気疲れもあってか、なんかすごくすごくぐったりしています。
残暑の中、肉魚卵とかなまぐさ食べてないせいもあるんですかね〜
逆に炭水化物しかたべなくなったので太る太る。
とても疲れてしまった。


ただこの作業をやっててよかったなって思うのは、本当にこの数日で祖父の顔を一生分くらい見てること(笑)
生前まったく顔を合わせていなかった。
こんな顔するんだなぁ、こんな仕事してたんだな、の写真を延々と見て作業をしていると、不思議と祖父へのいやな感情が薄れていくような。
亡くなった当日の私の実に名状し難い複雑怪奇な祖父への愛憎は、忘却の彼方へ霧消していくような…そんな気持ち。
パネルの中の一枚に選んだ、祖父の膝に乗ってにっこりわらう女の子とうれしそうにわらう祖父の写真を見てると余計に。


そんなせっせと走馬灯(のような年表パネル)を作りなう。
作業BGMにひぷまい聞いててたのしい。
夕方からはお通夜。
なにもかも初めて。


初めてといえば家族が出払うので、我が家の犬、初めてのペットホテル。
かかりつけの病院がやってくれているんですが、犬と離れるのが不安すぎる。

28日の話。慌ただしく



祖父が亡くなり、とにかく慌ただしい日々を過ごしています。

喪服を買いに行って、数珠を買いに行って、就活の時に買ったまま入ってなかった黒い靴を修理に出して、ひっきりなしにくる弔問客や取引先からの対応に追われ。
更に告別式に使う?ためのメモリアルボードを作るため祖父のアルバムをひたすら確認する作業で1日潰れました。
とても多い祖父&姉の写真に、孫写真は平等にせねばなんかないのか!って叔父一家にきいたり(なかった)

写真を見てると知らない祖父がいっぱいでてくる。
母はさも昔からこうだったのに後半おまえは大層ひどい態度を取ったみたいな言い方をするけど、私にとっては笑顔の祖父すら知らぬ顔なのである。
立派な仕事をしたらしい、カメラが好きだったらしい(知らなかった)、先々代の犬を抱っこしてこたつに入るらしい(考えられない)、小さい私の写真を自分のアルバムに脈絡なく貼るらしい(初めて見た)

私は本当につらい時期があったから、美化は絶対にしないけど、こういう時代もあったのだと思う。
もっと早く知りたかったなとも思う。
お棺にいつも使っていた茶碗を入れればと言ったら、それはお前が祖父に怒って投げて割ったと言われた。とてもとてもショック。私だって私なりに悲しいのだ。


やっぱり写真、アルバムはいい。
大学時代アルバムをプレゼントした友達も、ネットを通じた友達も、みんなアルバムを喜んでくれた(たぶん)
本当なら皆にアルバムをプレゼントしたいと思っているけど自分の写真は好きじゃない…という子もいるし悩む。

最近は撮る機会はすごく増えたけど逆に印刷しなくなった。
もっとどんどん印刷したいものですな。



姉が祖父は仏教だったからしばらく生物を食べぬといって、大星由良之介だぁと思いつつ私も真似てみたり(お粥とりんご生活が伸びただけだし)

喪服を姉と買いに行くとき、蝶が私達の周りを回って庭に入っていって、あの祖父が蝶になぞなるかいなと半ば思いつつ姉は思うところもあったようで、しばし沈黙。
蝶といえば不思議な事に季語は夏なんですよね。
雷も夏の季語。
さみしい夏の終わりがたたみかけてくる。

さくらももこもね、多くの人と同じようにさくらももこでエッセイの楽しさを知った身としては、彼女の新しい文章はもう読めないのかぁと悲しくなりました。


で、通夜や告別式などの一連が完全に終了するのが31日。本当に夏の終わりなわけで。
それまでずっとバタバタしてます。
体調は今日やっと完全復活なのでツイッター低浮上はそんな理由。
翌日はステコン〜
行くか行かないか迷ったんですが、9月1日、従兄達も学校始まるし日常が始まるんだから行けば?と。
しかしネイルや美容院の予約は取り消しました。
着る服そんなにないので普通に予定していたおしゃれはしますが。最初は気が引けてたんですが、しっかりした場所ではきちんとした正装を厳しく言い渡していた祖父なので逆にしっかりした服を着ろと言われ。

ただスケジュール的に体力が持つかなぁ。という心配。


そんな八月末。

39度と、祖父逝く。B


間が空いてしまいましたが25日の続き。


※私の気持ちは暗くないのですが、タイトル通り、暗い内容ですので苦手な方は気をつけて。



車で祖父が家の前を通ると聞いて総出で準備をしてたんですが10分だけ家の中で寝かせられると言われて慌ててスペース作りと布団準備。

従兄弟達にすら見せるのが恥ずかしい在りし日の面影なしの汚い部屋…(主に姉の本とグッズと本と本)
もう時間がない!と本の上に椅子を乗せたりずらしたりしてなんとか。


そして庭から運ばれた祖父を10分間、家族で囲みました。
母が泣き、叔父が泣き、姉が泣き……。
この記事を書くにあたって一番書きたかったことはここなんですけど。
私は涙は出てはいるけど泣けなくて、一人だけ扁桃炎カバーするためにマスクをしていたけど実は心の底から泣いてないのが周りにばれてしまうんじゃないかとそればかりヒヤヒヤしていた。

いや、私だってかなしい。
98歳という大往生に対して肉親の情なりにかなしかった。

でも声をかけるのは母姉叔父ばかり。
母と叔父の悲しみは語る迄もなく。
元々他人だった叔母も、離れて暮らしててあまり会話した事もなかったであろう従兄弟達の感じもどこか偉大な祖父が遠くへ行ったという実感のないさびしさもおかしくはない。

だが、姉だ。
姉は孫の中でおそらく一番泣いていた。初孫として、同じ家に暮らし同じごはんを囲んだ者として本当に普通に悲しそうに泣いていた。
え〜じゃあ私が間違っていたのか、と。
私が物心ついた頃からの祖父のイメージとしてはとにかく苦手、であった。
何か国に仕える立派な仕事をし、厳しく、こわい、いやなイメージ。
毎日毎日母か祖母と大声で怒鳴りあい、晩年は介護で大変迷惑を被った。
母は、あんなに世話になったのにと言って私を詰るけど孫娘にそういうイメージを植え付けたのはどうかんがえても幼き頃からの母からのすりこみである。
一度小学生の頃、あまりに母が祖父に怒鳴るからこれは祖父の方が可哀想ではないかと、祖父の部屋に忍び込んでまあじいさんはわるくないよと態度で示そうとした時がある。
その時は子供はでてけ!と怒鳴られた。その時から私は祖父に同情はしなくなった。
晩年だって私が祖父に怒ったのは、母に下衆な勘繰りをした時と、姉を憐れんだ時と、介護で後生だからやめてくれと頼みを聞き入れてくれなかった時だけである。(一番最後は私が悪いのは理性ではわかってます)
自発的にキレた時はなかった。いまになって何度も母に悪者扱いされるなら耐えればよかったとも思う。
話が逸れた。
とにかく、私にとって祖父はいいイメージではなかった。
晩年は私を父がいなくて、進学コースからはずれて、可哀想という憐れみの目で見てきた。もちろん気付いた頃からいない父の不在は私になんの影響も与えていないし、学歴コンプは幸せな大学生活によって消滅した。それなのに「かわいそうになぁ」「がんばれよぅ」という祖父に私は言葉に出来ない複雑な感情を抱いていたのだ。
ぼんやりと姉と祖父と先代の犬の散歩に行ったのが楽しかったという記憶はある。だから、言い換えるならいいイメージもあるけれど九割位はいいイメージではなかった。
姉も一緒だと思った。
姉も、祖父を忌み嫌うものなのだと思ってたから心底驚いた(いや、昨今の祖父母に対する態度から薄々わかってはいたが)
三歳の差が生んだ記憶の差だろうか、姉には幸せだった祖父と孫の記憶があるのだろうか。なぜ優しい言葉をかけられるのだろうか。

衝撃と焦燥とずるいという感情で黙って泣いているうちに、祖父が家に帰ってきた10分間は過ぎた。
葬儀社の方が運んでくれ車庫まで見送った。
また慌ただしく片付けるとごはんを食べてない事を思い出し、ドッと疲れが吹き出してきた。
扁桃炎の薬ものまなきゃ、と思った。

疲れが出てきたのは皆も同じなようで従兄弟達は帰っていった。

私はお腹が空いた気がして21日に作ったカレーやらなんやらを食べて実に4日ぶりにちゃんとした食事をしたけれど、胃にはもちろん優しくなく、気持ち悪くなって朝まで眠れなかった。


とにかく25日、98歳の大往生の日だった。
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