美味しすぎる牛鍋を前に私は次の言葉を必死に探していた。
そもそもどうしてこんな事になったのかというと、遡れば今年はふざけて作った年賀状が中々評判も出来もよくて、だから、彼女にも送ってやろうと思ってしまったからだった。
返信ハガキなんかなくてもこっちも気にかけなかった、というか例年より多くの人に送ったせいで誰かから来なくても全く気が付いていなかった。
そんな年賀状のやりとりも過ぎ去った1月半ば。
急に届いた寒中ハガキ。
喪中だったから寒中お見舞い失礼しますの下には婚約しましたの文字。
そのハガキを受け取って何故だか色んな封印したはずの記憶が蘇ってきて眩暈がした。
しかし、会いたい、紹介したい、なんて書いてあっても連絡の一つも寄越さず、やっぱりななんて思って忘れようとしていた次の冬目前。
もうそろそろ来年の年賀状のネタを考えようかな、なんて思ってた所にいきなりきたメールには、明後日旦那とNYに行くから会ってというなんとも一方的な言葉が書いてあった。
彼女との出会いは中学一年生の時だった。
小学校からそのまま上がった組は内部、中学から新しく入ってきた組は外部と呼ばれていて、内部生なんかだいたい知り合いだからイコール見覚えのない子が外部。
内部生は初めてみるお互いの制服を褒めあったりしてた。
私も小学校一年生から知ってる子達の学ランやセーラー服を照れ臭く思いつつも嬉しく思っていた。
外部生に対しては上から数えた方が高い偏差値の中学受験を乗り越えた子達なわけだから頭がよさそう…というちょっとした壁を持って見ていた気がする。
中学一年のクラスはそもそも隣の席の男子も小学校のクラスが一緒だった奴で緊張もなくホームルームが始まった。
彼女は名字がわ行だったから一番後ろの席だった。
私は何故か昔から出席番号が後ろの子に憧れがあった。
小学校低学年高学年…と仲良くなる子はみんな出席番号後ろの事が多かったし、授業中でも賑やかで楽しそうにしてる子は出席番号後ろの一番端の後ろのグループだったから、なんとなく、その子もいいなぁって思った気がする。(私はいつも出席番号真ん中位)
それからどうやって仲良くなったかは覚えていない。
むしろ小学生や中学生ってどうやってあんなに仲良くなれたのか今じゃ思い出せない。
どんな話からそこに辿り着いたかは覚えてないけど、彼女も私も帰る方向が同じだった。
同じクラスの、帰る方向が同じ子と固まって帰って、一人降り、二人降り、最後はいつも彼女とふたりきりになって色んな事を話したから、たぶんそれがきっかけで仲良くなったのだと思う。
彼女が初めて告白して彼氏が出来た時も、初めてデートした時も、一番近くで話を聞いていた。
二年生になってクラス替えがあったが、彼女とは同じクラスでそのまま仲が良かった気がする。
変化が起こったのは私の方だった。
今だにあの時私に何が起きたのかは自分でもわからないし、あの時の事が今現在も頭を悩ませている事は間違いない。
私は学校に朝から行けなくなった。
でも別にいじめられたとか学校が嫌になったとかではまったくなく友達は多かったし、(というか学校の性質上クラス全員と話せる校風だし、昔馴染みでクラス外にも多く仲のいい子はいた)学校が好きすぎて無理やり放課後からでも登校していた。
今振り返ってあえて原因を考えるならば、天岩戸になってしまった大切な人を1人にしておけなかったとか、逆にその姿が一瞬でも羨ましかったとか、または全然違う理由で数学が苦手すぎて5点とかから20点テストの点上がったのになんだ20点かと怒った母と家庭教師が喧嘩して家庭教師がやめさせられたのを機に学校全体の偏差値主義に嫌気がさしたからか。
どっちにしろ私の普通の中学生活は終わった。
それでも朝から行けなくなっただけで毎日登校していた。
だから彼女とは仲がいいままで、二年生になると寄り道に味を占めて池袋でプリクラを撮ったり、私の最寄り駅で降りてはたこ焼きを食べに行ったりして他愛もない話を毎日していた。
今にして思えばそんなに話す事がどこにあったのか、本当に不思議だ。
そんな日々のまま私は同じ高校に進学しない数少ない人間になった。
それを告げた時、(もちろんその事は告げずともみんなわかっていた事だが)彼女はすごく悲しい顔をした。
その時の彼女について卒業文集に書いたらクラスのめったに話さない男子からあれすごくよかった泣けた、なんて真面目な顔で感想も頂戴したのを覚えてる。(それをいわれた私は戸惑いと苛立ちを感じたけど)
ただこの頃一度思った違和感は、一度彼女から「うちら違うグループなのによくここまで仲良くなれたよね」と言われた言葉だった。
クラスカーストなるものがぼんやりある中、元々誰とでも話せたというのと、出席の乱れからそういうものにあてはまらない私はあまりグループというものを意識した事がなかった。
否、もし意識したとしても彼女と“グループが違う”なんて事は思ってもみなかった。
私自身は授業に出る日数が少なくても、ゲームに例えるなら親密度が変わっていなかったから仲良しの度合いは延長戦だったが、私がいなかった間、彼女は新たな友情を育んでいたという事だった。
それでもその時感じた違和感は一瞬だけであった。
卒業が近づいてきても、ほとんど同じメンバーが進学し、学校も横の校舎になるだけだから卒業特有の悲壮感みたいなものは校内に全くといっていいほど漂っていなかった。
卒業式数日前。
全体式練習の日。
私は生まれて初めて自分の意思で学校をサボった。
あれは一緒に登校してたのか前日にメールで示し合わせたのかは覚えていないが、彼女と二人でスタバか何かに行ったのだ。
二人一緒に遅刻していったら絶対バレるよ、何て言いながら相変わらず他愛もない会話をしていた。(卒業式付近で一緒に出かけてカラオケに行ったりした記憶もあるけどこの時のものかはわからない)
遅刻して行った時、クラスではばれていたけど暗黙の了解で大目にみてもらえた気がする。
卒業式当日。
式、謝恩会、と我慢してた友人達が帰りの電車で泣きはじめた。
その時、高校が変わるのは私とあともう一人位だったからその涙は私に向けてのものだった。
しかし私は全く泣けずにいた。
いつもはもっと手前で降りる友人が私を最後まで見送りたいと最寄り駅まで乗ってきた。
その頃には彼女はもうボロボロに泣いていて、その時に私こそが彼女の最寄り駅まで乗ればよかったのかもしれない。
ただ、何故か私はその時そこにいる事が耐え難く、ついてきてくれた友人に泣き止まない彼女を駅まで支えてくれと言ってさっさと降りてしまった。
本当に涙が出てきたのは、家に着いて脱いだセーラー服を見てからだった。
ちなみにこのブログは中3から書いてるので当時の事を思い出そうと記事を遡ったら卒業式前後は何か諦めてるのか、当時のリアルは隠すネットの風潮ゆえか、オタク話だけだったり、詳細は書かれていなかった。
後悔というほどではないが、あの時泣いている彼女の駅までついていったら…と今でも思う。
確か別れ際に手紙を受け取った。
そして駅から家までの短い距離でその手紙を読んだのだ。
そこには一度も口に出されなかった“親友”の文字があって、だから私はその文字に実に牛鍋を前にした先日までずっと縛られていたのだと思う。
ここで終わっとけば中学の時仲の良かった子で私の中で決着は着いたのだろう。
高校に進学した私はある種のカルチャーショックを受けた。
偏差値の違い、女子校の特色、とにかくクラス全員が知り合いではなく決まったグループでしか話さないという事が一番の驚きだった。
しかしそれさえ飲み込み、校則の二つ結びを嫌々こなせば、私も仲のいいグループが出来、好きな友達が出来たので高校生活に不満はなかった。相変わらず朝起きられないという問題は横たわっていたけど、新しい友達は楽しいしオタカミングアウトも出来てなんとかやっていた。
一度、中学に顔を出す機会があったけどなんとなくもうそこは居場所ではない事も悟っていた。
しかし卒業した場所が居場所じゃなくなってしまうのは中学に限った事ではないし、個人間の問題ではないからまだショックは大きくなかった。
その事件が起きたのが何月だったのかは覚えていない。
その日の私のスケジュール帳には“あんパン記念日”と書かれていた。それは彼女と買い食い寄り道を楽しんでいた頃、たまたま見つけたあんパン屋さんかあり、あんパンが美味しかったから今日はあんパン記念日して来年もまた食べようと決めた日だった。
私はその日の前日かそれより前くらいに彼女と久々に一緒に帰ろうとメールした。約束、というほどしっかりしたものではなかった。
当時、私は高校にいながらまだ偏差値至上学歴主義みたいな所が抜けなかった。
そのまま高校一年生の進路相談みたいなものがあった。その時も、第一志望の大学は遥か高い、しかし元の学校の人なら当たり前に志望する所を先生に告げた。
が、その考えは先生に呼び出された後、考え直すように言われた。
私は話せば話すほど自分の学力の情けなさやこの高校に来た悔しさで涙が出てきてしまいには涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながらひたすら『まだ三年もあるのに今から志望を下げろなんて、やっぱりこの高校はダメだ』『今日は彼女に会うのに』なんて思っていた。
あの時先生が言った「それでも今からそんなに真剣に進路を考えている子はいないから、えらい」という言葉はつらい問答の中でも救いだった。
また後日考える、となって進路相談から解放された頃には涙が顔を覆い尽くして慌ててトイレに駆け込んで顔を拭いた。
それでも涙は止まらなくて、当時、ハンカチやティッシュといった必需品を携帯していなかった私は、駅で降りるごとに顔を拭くためにトイレに行かなくてはならなかった。
高校へは何通りかの行き方で行っていたのだが(定期は使わず好きな方法を使っていた)彼女と会うためにその日は池袋まわりで帰った。
だがやはり涙はとまらず、今日はダメだと彼女に「ごめん学校が長引いて今日は無理になった」とメールをした。
すると返ってきたメールは、「ごめん忘れてた!クラスの友達とテスト勉強してたら盛り上がっちゃって〜」という文字。
私は、その時、初めて附属の高校に行かなかった事を後悔したのかもしれない。引きはじめた涙は更に出て、結局家に着くまでずっと泣いていた。
電車で私の前に座っていた人はさぞかしびっくりしただろう。ぐしゃぐしゃの顔した女子高生がずっと泣いてるのだ。
物言いたげな人がいた気もする。
それ以降、大学という居場所が決まるまで中学までの友人達とは連絡を断った。
この時からより一層、特別仲のいい友達、というものは作らなくなった気がする。