くゆる

今表現における資料集めしててふと思い出した事を綴り残そう。
 
幼い頃、家から隣町に向かう峠の中央に葬式場と火葬場が出来た。
それを見て母は大層忌み嫌い、そこを通る度に嫌悪を顕にする傍らで私は育った。
 
仕方のないことだろう。火葬場なんて良いものではないし
赤の他人の死体が自分の生活圏に集まり運ばれ続けるのかと思えば気持ちも悪くなる。
 
だから、幼い私はその意味合いを持った建設物を見たくなくて
そこを通る時は(車の後部座席にて)目を瞑って顔を伏せた。
見たらいけないものだと思っていた。
 
「通り過ぎたら、良いよって言ってね。」
それが日課だった。
 
 
それから何年も経ち、
祖父が亡くなり祖母も亡くなり
嫌悪しすぎる事のない一般の視界で過ごしてきた。
 
訳だけれど
 
 
今は、どうにも普通の視界でそれを見ることが出来ない。
つい、視線が奪われ眺めてしまう。
勘違いして欲しくないのは
決して死への羨望とかそういう事を言ってるんじゃないんだ。
 
 
生き物が死ねば体は腐り蛆が湧く
微生物に喰われて異臭を放ちながら土へと溶ける。
時には日に晒され水が足りずに
中途半端に腐った形のままいつまでも残ってしまう事もある。
山育ちだから、動物のこういう場面は日常の一部だった。
 
もし人として関わった存在がそんな姿になっていたら
あまりにもショックだろう。
今の時代、事件や事故で無い限りはこんな姿にはなれないのだが
人間にとって(特に昔の日本人は)死というものは「穢れ」の対象だった。
 
 
それでも、私はこれが美しいと思う。
 
 
そう書いたら語弊を招きそうだ。
上記の、羨望では無いと書いた事と意味を同じくして
 
クリーン、でも、ビューティフルでもない、
 
そういう物理的に綺麗な意味合いではないまた別の威厳としての美しさ。
自然と切り離された人間が、結局は自然と同じ終を迎える、
そう、これは諦めと安堵なのだと思う。
美しいものを見た時の感情とあまりにもよく似ている。
あまりにも広大で美しいものというのは、恐怖と一体に存在する。
 


同じ場所に還って行く生命の象徴。
 
安らかに。
 
人が汚れの暗闇と呼んだ先で
否それは癒しでこそあれと私は願う。
言葉にしてただひたすらに。