がちゃりと何かの鍵の開く音がしたかと思うと、僕は急かされるように外に飛び出していた。暗い道の中で、息を切らせて走る。ただ、走る。そのとき、電気が走った
ような痛みを感じた。目の前が一瞬弾けたように明るくなって、当然のように縺れた足は、僕を床へたたき付けた。
「 」
声にならない叫びと共に、世界が完全なる色彩を得た。
静寂を切り裂くような騒音。椅子が倒れる音だ。この音を作り出したのが自分だと気づくのに時間がかかった。
僕はいまどこにいるのか。何をしていたのか。流れる汗が頬を伝い、床に落ちた。ふと顔を上げて見れば、驚いた。そこはとても見覚えのある場所だったから。
「教室。ここは学校なのか」
安堵に似た疲労感が僕の中に流れ込んだ。時刻は夕方だ。机上にはノートや文房具が置かれていたことから、どうやら僕は放課後で一人勉強をしていて眠ってしまってい
たようだった。
それにしても恐ろしい夢だった。思い出すだけでゾッと背筋が凍る。
飛び起きた際に蹴飛ばしたであろう床に転がった椅子を拾い、定位置に戻した。
初夏の夕時らしく、蜩が寂しげに鳴いていた。その声をきいて、そろそろ帰らなければ、と机上の物を鞄に無理矢理押し込んだ。
帰り支度を終え、席を立ったそのとき、教室のドアが開いた音がした。
ドアに目を遣れば、目を真ん丸に見開いたクラスメイトが立っていた。仮にAとしよう。
「A…」と、僕は彼女の名前を呼んだ。Aは、その大きな目で僕を見つめたままだ。
不思議に思い、もう一度名前を呼ぼうと口を開いた。だが、それは実行されなかった。
立ち尽くしていた彼女は、ネジを巻かれた人形のように急に動き出し、僕に抱き着いてきた。
「A?」
「あいたかった…」
彼女はそれだけ言うと、震えながら抱き着く腕に力を込めた。僕はどうしていいのか分からず、ただ、いまにも崩れてしまいそうな彼女の髪を撫でてやった。
よく見れば、彼女の綺麗だった髪は乱れ、その姿も傷だらけであった。
「何、どうしたの」と僕が聞くと、Aの肩が揺れた。そしてゆっくりと顔をあげた彼女は、泣きそうな声で僕に言ったのだ。「みんな 殺された」と。
「みんな、みんな…私と貴方以外、Hに殺されたの。だから逃げなきゃ、ここにいるって知られたら同じように殺される!」
最後の方は駆け足で、その必死さが伺えた。Hというのは僕の親友だ。まさか、彼が人を殺すなど有り得ない。しかし彼女が嘘を吐いているようにも思えない。僕は泣き
出してしまったAの肩を支えた。
「どうなったのか、分かるように説明してくれないかな」
すると、彼女は喉から声を搾り出すように語ってくれた。
Aの話はこうだった。
始まりは一人のクラスメイトの家に、突然Hが訪ねてきたことだった。Hの手には刃物があって、何の脈略もなしに奴はそのクラスメイトを刺したのだそうだ。
Hは次に、公園にいた友人を二人刺した。その次は担任の先生、また友人…とたった半日でその行為を繰り返し行った。Hは僕やAも殺そうと必死に探しているらしい。
Aはそれから逃げるようにここに来たのだと、そこで話は終わった。
分からない。何故Hが僕らを殺して歩いているのか。そんな男ではなかったはずだ。
気弱で大人しい奴なのだ。
「もうすぐ、もうすぐ私も貴方も殺されてしまう!」
錯乱するAに「警察は?」とあくまで冷静を保とうと声をかけるが、それを遮るようにAが叫んだ。
「もう無駄よ! 逃げられないの、あああ、いや…いやぁぁぁぁあ!!」
「A!」
僕を突き飛ばし、狂ったように教室を飛び出したAを追って、僕も教室を飛び出す。
しかしそこにAの姿はなくて、代わりにあったのは廊下の隅に追いやられるように転がっていたHの死骸だった。
状況が読めなくて、ただそれを見つめた。そして糸が切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。
「H…?」
先刻の話は。Aは。何で。どうして。…A。
「馬鹿ね。みんな」
背後から穏やかなAの声がした。僕は振り返ることが出来ないまま、Aの声を聴いた。
「私はおかしくないのに。貴方が欲しいから、貴方に笑いかける人を、近づく人を遠ざけて。私だけでいいのに… なのに私はおかしいってみんな、おかしくないのに
!」
Aは後ろから僕を抱きしめた。その手が僕の首を撫で、息が出来ないほどの緊張感が走った。
「私、貴方が好きです」と、彼女は恥ずかしそうに言った。その姿から、殺人鬼の面影は感じられなくて。何故だか涙が流れた。
「だから下さい。貴方の心を、私に。私だけに」
僕は悲鳴をあげることも出来なかった。だけどその口で最期に、確かに伝えた。
(ありがとう)
口パクになってしまったけど構わない。伝わっているかも分からない。痛みが僕を支配する。僕を選んでくれた彼女に、ありがとうと言いたかったなんて、胸を貫かれな
がら思うことじゃないのかもしれない。だけど、ごめんねとは言いたくなかった。
「 」
機能していない耳では何も聞き取れなくて、僕はその世界に別れを告げた。
真っ暗だ。ここはあの世か。天国か地獄か。
もう二度と見ないと思っていた僕の世界に、再び色がついた。
「え?」
気づけば自分の部屋のベッドの上だった。先刻のあれは、夢なのか。恐ろしい夢だった。妙に現実的だったと重たい身を起こした。
ふと目に入った姿見に、自分の姿を映す。ああ、何て情けない顔だ。欠伸をしようとした僕の両頬の筋肉が横に引っ張られる。
「本当だ。 …え?」
本当だと言ったのは間違いなく僕の口だ。だが僕の意志ではない。
「情けない面だ。 動くな、この口が!」
他から見れば不自然なこの光景。挙動不審になりながら部屋を見回すと、僕は成り行きでそいつと目が合ったのだ。
「やっと気づいた?」
僕の口元が怪しく笑みを作り出す。その様は鏡に映る。鏡の中の自分は、確かに僕に話しかけていた。これは夢か。
「そうだね、夢だろう」
笑いたくもないのに両頬が吊り上がる。鏡から離れようにも固定されたように動けない。
ああ、やめてくれ。
「何もしないよ、何。また死にたいの?」
身体が勝手に鏡へ近づく。離れたい。こんなもの。その思いは虚しく、僕は鏡と向き合うようにその位置に誘われてしまった。
「何がしたい」
これは僕が発した言葉だ。
「こっちへおいで」と、ぬっと伸びてきた腕に鏡の中へ身体を引きずり込まれた。
浮遊する感覚が僕を襲った。そしてまた世界の暗転。
それから同じようなことを繰り返した。
処刑されそうになったり、江戸の町で専売役をしていたり、人形にされたり。一国の王だったり、虫になって、掃除機に吸い込まれそうになった笑い話のようで本気な話もある。
終わって始まり、始まって終わる。必ず話の終わりはバットエンドだ。
僕は何度夢を見て、何度死に、いったいどれが本物なのだろう。
「全て夢で、真実ですよ」
見知らぬ男だ。
これはいつもと違う夢である。白い箱の中に閉じ込められている僕を、男は外から見ているのだ。
「…誰だ」
身体を動かそうにも、鎖で五体を縛られているのだ。声すら弱々しい。
男の顔は見えない。ただその声色は楽しそうだった。
「辛い?」
そんな感情はもうない。どうせまた終われないのだ。
「どうして夢を繰り返し、それから抜け出せないか。疑問に思ったことはありませんか」
本当に楽しそうだ。まるでゲームでもしているようで、苛立ちが湧く。
「それはね、君の魂が悪夢に縛り付けられちゃったからです」
選ばれた貴方はとても可哀相です、と男が付け加えると、そのままどこかへ消えていった。
目の前に自分がいる。これは夢か。医療機具や管を身体にたくさん付けて、死んだように眠っている。
これは夢か。
ああ、どこかで聞いたことがある。
植物状態の人間は、いつも『夢』を見ているのだと。
僕は本当の意味で死ぬことは出来ないのだと、自嘲の笑みを浮かべて、再び悪夢に堕ちた。
fin.