思想の中の靄がかった空間。それは、森の中への姿を変えた。目の前に懐かしい母の姿が映る。

 「おかあさん。どうして」

くいっ、と小さな手で服の袖をひいた。行かないで、彼女の口がそう告げる前に、母はその手をそっと解いた。

「アルト。いまは分からないかもしれないけど、きっとあなたのことを守ってくれる人が現れるわ。だから何があっても大丈夫。何があっても」

大丈夫。そう、大丈夫。

「だから…」

母が遠退いていく。いやだ。嫌だ。行っちゃ、嫌だ。

「待って!」そう叫んで、再び服に手を伸ばした。しかし、それは叶わなかった。
竜へ姿を変えた母はそのまま消えて、帰ってこなかった。



「なんで…思い出しちゃったかな」
 森を歩きながら感傷に浸る。テディが待ってる。早く村に戻らなきゃいけないのに。急に寂しくなった。一人なんて平気なのに、一人でいることが怖くて堪らない。冷たい手。あのとき、掴み損ねたものだ。もっと手が大きかったら、母に届いただろうか。

「だめ!」

ぱしんと両頬を叩く。

「考えても仕方ないの。早く村へ戻らなきゃ!きっとテディさん心配してるわ」

気分を切り替え、村へ向かおうとした。そのときだった。

「…ッ」

咄嗟に近くの茂みへ身を隠すアルト。その目線の先にはボロ布のような服を着たとある集団だった。目付きはいやらしく、下品に笑う無精髭を生やした男たち。その手には大きな袋。

(まさか)

嫌な予感がした。こんな辺鄙な場所、しかも村から外れた森の奥にやってくるなんて、ろくなものじゃないことを知っているからだ。
男たちは、真っ直ぐこちらに向かってきている。その先にはアルトの家があった。
男たちの中でも更に体格のいい男が辺りを見回す。

「これだよなァ。竜神さんのいるっていう屋敷は」

「へい。間違いありゃせん。ですが、妙に庶民的な住み処ですねェ」

間違いない。あの男たちがテディが言っていた山賊だ。どこからか竜神の噂を聞きつけたらしい。アルトは息を殺してじっとそれを見ていた。
ドアに鍵がかかっているのが分かり、蹴破って家に入っていく。さきほど買ったものは床に散らばり、本棚も倒れる。すべて荒らされていく。大切な写真も。

「やめ、て」

自然とこぼれた声が震える。壊さないで。父と母の思い出が残るその家を滅茶苦茶にしないで。
土足で、踏み込まないで。

「目ぼしいものはないんかいや。宝とか宝石とか、ウロコでも!とにかく探せや!」

ぱりん。小さな音を立てて、写真立てのガラスが割れた。
思い出が汚されていくのが耐えられなかった。

「やめてっ!」

アルトは声を張り上げ、男たちの後ろに立った。拳は握られている。床に落ちた写真を取り上げると、両手を前に出し叫んだ。

「アゲルンガ ソルゲンガ ガイラァド バン!燃えろ!」

呪文を唱えると、炎が吹き出した。その隙を見て、アルトは村へ向かおうと走った。このことを誰かに伝えなければ。
しかし男も黙っちゃいなかった。

「追え!あの小娘を捕まえろ!あいつ、何か知ってるにちげェねェ!」

追い付かれる前に、誰かに、伝えなきゃ。
写真を胸に抱き、必死で逃げた。