今再放送してたドキュメンタリー、非常に考えさせられた。

トルーマンは実は原爆投下について詳細に関知しておらず、攻撃対象は軍事施設に限るという命令を半ば無視した担当者の計画によって無辜の市民が犠牲になったというのだ。
トルーマンは女性や子どもが犠牲になってはいけないと明確に記していた。
ヒロシマに続きナガサキに原爆を投下してトルーマンは後悔し責任を感じていたという。
しかし彼はその後悔を戦後、核兵器廃絶等ポジティブな活動に活かすことは無く、原爆投下の責任を免れる為の弁解に終始した。

『アメリカが原爆を落としたことは、戦争を早く終わらせる為であり、アメリカ人のみならず多くの日本人を救ったのだ』と。

アメリカの退役軍人は今なお原爆投下を正当化し、人類の歴史を変えたことに微塵の後悔もないだろう。
何度か過去にもドキュメンタリーで見た限り、あの残酷非道な兵器を戦争を終わらせたヒーローとして誇りに思っている人もいた。
一方で若いアメリカ人の中には、核兵器はどんな理由があれ使用してはいけなかったと考える人も多いという。
これはオバマ大統領が広島を訪れる前に、謝罪の是非について議論が起こった際にもニュースで取り上げられていたテーマだ。
あの時代を生き抜いた方々は謝罪なんてとんでもない、アメリカ人が日本人をも救ってやったのに何て馬鹿げた話だ…位に思ったのだろう。
しかし戦争を知らない世代、まぁある意味で客観的に歴史を振り返ることができる方々は、アメリカには道義的責任があると断言できるのだろう。

『トルーマンは原爆投下が戦争を早く終わらせたと当初から思っていたわけではなかった』

このドキュメンタリーで取り上げられたことが事実なら、原爆により犠牲になった途方もない数の魂に報いることができるかもしれない。
トルーマンはあまりに大きな後悔を背負い、原爆投下を正当化する為の物語を作った。
自身の思いとは裏腹に。
これはつまり原爆投下が間違っていた。
投下すべきではなかったということだ。
大統領としての立場がある中でこれほどまでの苦境に立たされていたとは知らなかった。

犠牲はあまりに大きく、被害は甚大だった。
その一瞬の犠牲のみならず、未だに後遺症に悩み、一生消えないヤケドの跡と向き合わないといけない方々がいる。
原爆という、恐ろしい兵器が使用されたことがどれほど残虐なことか理解し、未来永劫使われることがないよう努力していくことこそが、
あの瞬間焦土と化したヒロシマとナガサキにいた方々に報いる、日本人としてのアイデンティティなのであると思った。
散々こちらでも書いてきたけど、誰が何をしたかとかの問題じゃない。
アメリカを恨む気持ちも全くない。
やってはいけないこと、決して繰り返されてはいけない過ちがあることを学ばなくては。
犠牲の上に成り立っている今我々が生きる世界。あの時代を生きた方々に報いなければ。

アメリカ側が京都に原爆投下するつもりだった話ってよく出るけど、あれはほんとに不愉快。
京都市民は知的レベルが高いので原爆投下すれば事の意味を十分理解するだろうとか、京都は素晴らしい文化的な都市だから壊滅させるにはふさわしくないとか、
もっと凄いのは京都に原爆投下したら戦後の日米関係に影響を及ぼすとか、京都に原爆投下することでアメリカに対する批判が出るだろうとか、一体広島と長崎の市民を何だと思ってるんだという話。
そこまで見通せる人がいたのに、一方でこんなにひどいことになると思わなかったと大統領が後悔しちゃうのも変な話だと思うな。
まぁ壊滅的なダメージを与えてやろうと意気込んでる人と、軍事施設をパパッと攻撃できちゃうと思ってた人の違いなのかな。
私は個人的に原爆は人体実験的な意図が強くて、人類が未だかつて経験したことがないインパクトを与える兵器として、どんな被害が出ようが知らねーって感じで落としたと思っていた。
まるでゲーム感覚で。
だからきのこ雲の下にたくさんの市民がいることやそれが命を持った人間である認識があったのだということ自体が意外だった。
うーん何というかアメリカにとっては日本人が同じ人類ではなく、死のうが消えようがどうでもいいゴミ同然のデータに過ぎないと思ってたから。
トルーマンはそこに『女性』や『子どもたち』という『殺されるべきではない』命あるものが存在するという思考はあったわけだ。
でも実行されてしまった。
何故止められなかったか考え出したらキリがない。
そして驚くべきことは、原爆の計画担当者はトルーマンの命令によって3発目の投下を断念したのだそうだ。
3発目があったなんて。
広島のみならず長崎にまで原爆を投下した理由を長年疑問に思っていたのだが、戦争を終わらせるためじゃなかったとなると辻褄が合う。
まだ続きがあったわけだ。
トルーマンにほんとのほんとの気持ちを聞いてみたい。
先月原爆資料館に行ったけど、世界中の人達が熱心に熱心に展示を見ていた。
文化や信仰は違えど核兵器に対する共通の考えを守っていければ、過ちは繰り返させなくて済むはずと思うんだけど、平和ボケの綺麗事かな。