夕べ仕事が終わったあと、わたしはあの本について聞いてみた。アガーおじさん曰く、リムス金貨三枚という値段に間違いはなく、かなり名の知れた画家の作品だという。わたしはそんな画家の名前は聞いたことがなかったが、その「彼」がみずから署名を残した画集は世界にふたつとなく、あの一冊の価値をさらに高めているらしい。
確かに自分もあの絵には心を奪われた。それでもたかが署名ひとつで価値が跳ね上がるという感覚が、わたしにはよく理解できなかった。
――リュカなら解るのかな。
あの日わたしが捨ててしまった古いナイフ。刃も途中から折れていたし、錆だらけでどうせ使わないだろうと言うわたしに、リュカはどこかの刀匠の名を挙げて激怒した。お前にこれの価値が解るのか、と。
売り言葉に買い言葉。取っ組み合いの喧嘩のあげく、あれからわたしとリュカは一言も口を聞いていない。解るはずもないのだ。所詮わたしは学のない娘なのだから。
翌日、朝から同僚のマルタが「アガー・ゴーリー」に遊びに来た。彼女が差し入れに持ってきてくれた木苺のタルトはもう絶品で、わたしたちはたっぷりとお茶の時間を楽しんだ。幸い来客もなく、せっかくなので昼食も一緒にとる。朝のうちに買っておいたパンと、かき卵のスープ。ヒヨコ豆のサラダとチーズをたっぷりと乗せたラザニア。提督館でも人気のニーチェ特製メニューだ。さすがに仕事中ゆえ酒は控えたが、わたしたちは大いに舌鼓を打ち、始終下らないお喋りに花を咲かせた。
「それじゃ、店番頑張って!」
帰るマルタを名残惜しげに送り出すと、誰もいない店にまた一抹の寂しさが戻ってくる。自然と漏れるため息。店じまいまでしばらくは退屈な時間との戦いだ。仕事とはいえどうにも気だるい。わたしはなるべくのんびりと食事の後片付けをした。父さんに今の姿を見られたら、きっと派手に引っぱたかれることだろう。
そうして無駄にカウンターと台所を行き来しているうちに、ふとわたしは昨日の画集をカウンターに置き忘れたままだと気付いた。
「この、ミミズが這ったようなサインさえなきゃあの娘だって……」
白い表紙の画集。表紙の隅に見つけた例の画家の署名はとても小さく、おまけに字が下手くそだった。わたしはさっきまでの楽しいひとときを台無しにされたような気がして、本を乱暴に本棚に突っ込んだ。
ひょっとしたら、あの娘だっていつか買うこともできたかも知れないのに。いっそのこと、どこか破れたり痛んだりして価値が下がってしまえばいい。
からん、からん。
小気味良いベルの音。お客さんだ。わたしは気持ちを切り替えて、鏡の前でいつものニーチェ・アンシリーの笑顔を作る。よろしい。今日もとびきりの美人だ。
「いらっしゃいませー……って、あら」
意外な人物がそこに居た。もう会うことも叶わないだろうと思っていたのに、わたしたちの再会は思いの他、早く訪れた。あの赤いおさげ髪の女の子が、昨日と同じように所在無さげに立っているではないか。
「こんにちは」
「……こんにちは」
わたしから目を逸らし、少女はもじもじと肩を揺らす。今日は何の用だろう? わたしは彼女の目線まで腰を屈めた。しばしの逡巡のすえ、赤毛の女の子は意を決したように顔を上げると、わたしの前に小さな皮袋を差し出した。
「あ、あの! これじゃ全然足りないのあたしも分かってます。でも、あと一回だけでいいんです。このお金で本を見せてもらうのは、ダメですか……?」
真剣な眼差し。一体何が彼女をそうさせるのか、わたしには解らない。「アガー・ゴーリー」の客のほとんどは立ち読みだ。もちろんまともな客もいる。けれど多くの人間は暇潰しを目的に居座ったあげく、本を元の棚に戻しもせずに帰っていく。
だというのに馬鹿な娘だ。わざわざお金を払って立ち読みの許しを請うなど。愚かで、いじらしくて、可愛らしくて仕方ない。わたしは少女を抱きすくめたくなる衝動を必死に堪えた。
「……お金なんていらないわ。好きなだけ見ていっていいのよ」
花を咲かせたような赤毛の女の子の笑顔。何故か、あの一ページ目の黄色い向日葵が目に浮かんだ。ああ、そうかと頷くわたし。銘入りのナイフも、世界に唯一冊の画集の価値も自分には解らなかった。けれど今ならば、なんとなく頷ける気がする。少女の笑顔。この笑顔にはきっと、リムス金貨以上の価値がある。
* * *