花火を見よう、と鶴丸から誘われたのはお盆を越えた後、夏休みの終わりが見えて来る頃だった。なんでもこの街最大で唯一の花火大会があるらしく、毎年彼は決まった場所へ幼馴染と見にいくのだそうだ。それに、今年は一期を混ぜてくれるらしい。
面倒見が良い彼は二月に引っ越してきたばかりの余所者の自分ともよく遊んでくれる。夏休みの間も部活の帰りが一緒になったり、宿題を一緒にやったり、予想以上に時間を共にした。加えて幼馴染の輪まで割って入るのは気が引けたけれど、鶴丸と花火を見られる機会をふいにすることもできず、心のどこかが甘やかに告げる警告に蓋をして、ありがたく好意を頂くと決めた。
「お待たせしました」
そうして指定された待ち合わせ場所は高校の正門。当然のように校内は真っ暗なうえ、乏しい街灯が逆にグラウンドや校舎内の闇を深くしている。ところどころ錆びた門の横、入学式ならきっと写真スポットだろう場所で彼は既に待っていた。
待ち合わせ時間まではまだあるはずだけれどと思いつつ、逸る気持ちが手伝って駆け寄る。いかに白い彼といえども今日ばかりは飲まれそうな暗さだ。一期は今夜が新月であることを思い出して空を見上げれば天の川が綺麗に見えて、眩い。つられて思わず止まりかけた足に気が付き頭から振り払うと、一期の姿を認めた彼が片手を振ってもたれたレンガの壁から体を起こして迎える。
「花火大会の場所と学校は真逆なので、間違いではと思いましたが」
「分かりやすくて、見所に近くて、最高の待ち合わせ場所だろう」
「電話でも同じことを仰いましたな」
「さて、行こうか」
一期が返事をするや否や、先ほど振られた手がひらりと回って錆びた鉄を掴む。え、と溢れた一期の声を拾ったのか拾わなかったのか、うまく全身を使った彼はするすると門扉を登りきるなり向こう側へトンと飛び降りた。
花火を見るのに正門が待ち合わせ。それがどういう結果を示すのか分からないほど一期だって馬鹿ではないし、優等生ぶるつもりもない。門を越えるのだって想定内ではある。あるけれど、彼のこの身軽さを当たり前に己と一緒にされては困る。
「早く来いよ、一期」
「私にも同じように登れと…?」
「きみなら出来るさ」
ほら。導くように白い手の平が差し出され、門扉と改めて対峙する。この高校の門はこれまで一期が見てきた学校よりも少し高さがあって、決して低くはない身長の自分でもそれなりに見上げるくらいは高い。
それを、彼はなんでもないように上ったのだ。手馴れて見えたのは体が覚えるほど慣れているのか、そもそもの身体能力の差なのか。
「嫌ですよ」
あまりにも呆気なく来いなどと言うものだから、溜息をついて端的に述べた一言。都会育ちを舐めないでもらいたい。向こう側で、彼が揺らいだような気がした。
「ちゃんと、手伝って下さい」
けれど、鶴丸が望むのなら。いつだって答えはシンプルで、たった一つしかない。ずっとそうしていきて来た。下腹部に力を入れて錆びた鉄をつかむ。重厚な門は一期一人が体重をかけたところでびくともせずに体を支えてくれる。上手く描き切れないけれど、腕で持ち上げ、爪先で押し上げるイメージ。上まで行ってしまえば後は最悪、腕力でなんとかなる。
よしと門の一番上を見上げた視界の隅に差し出されたままの白い指先が入り込んで、ちりり、不意に違和感が音を立てた。向こうへ着地してから彼は、動いていただろうか。
「…あの、」
鶴丸さん。
呼びかけた声が詰まって、地面を蹴りかけた一歩目が止まる。そんな一期を向こう側に立つ彼は変わらない笑顔で見ている。白い輪郭が半ば夜に溶けているような、朧げであるような、錯覚。否、本当に錯覚なのか。目が離せない。
唐突に、今夜会ってから一度も彼の名前を呼んでいないことに気が付いた。ついでに妙な既視感の理由まで思い至ってぞくりと背筋が冷える。
彼が一期に呼びかける台詞はずっと、昨夜の電話と同じものばかりだ。
「なぁ、一期、」
それなら、彼の、名前は、
「おーい、一期!」
暗闇を一閃する声にはっと意識が醒め、無意識に詰めていたらしい息が一気に肺へ送り込まれて肩が上がる。キィンと頭が割れるほどの耳鳴りが一瞬掠めると、まばたきを二度する間に白い手は姿全身ごと消えていた。そこにはもう、ただ暗闇があるばかり。
悪い夢でも、みていたのだろうか。
「悪い!遅くなった」
「……いえ」
駆け寄ってきた鶴丸が、不自然に鉄の柵をつかんだ一期の手と顔を何度か見比べる。その輪郭が心なしか明確に見えることにほっとしたのも束の間、説明も弁明も出てこない姿をじいっと見つめるなり、にっと破願した。先ほどの彼が良く似ていただけに、人好きのするいつもの鶴丸を目の当たりにするだけで安堵する。
なにも彼に言わなくたっていい。今は、夏の不思議な体験として胸にしまっておけば。己に残された一期一振の記憶とともに、いつか笑い話になるだろう。
「なんだ、よく分かっているじゃないか」
「は、」
「行くぞ、一期」
なんて考えていられるのもほんの僅かな時間で、言うが早いか一期の隣へ並んだ鶴丸が錆びた鉄を掴んで門を上っていく。この短時間に二度も目の当たりにする鮮やかな体捌きに、一期はデジャブという言葉を浮かべずにはいられなかった。
ぽかんと停止して、三秒。とにかく今は、今度こそは、彼について行かなければ。足の置き方、手の運び方、体重の動かし方。さっきは呆気にとられてしまったから二度目の観察は無駄にしない。難なく向こうへ着地した鶴丸を確認して物真似の要領で一歩目を足掛け、体を上へ、上へ、上へ。考える暇もなく一挙手一投足を決めるうち一番上へ到達してしまっていたから、最後は可能な限り下のポイントからえいやと飛び降りた。
「思っていたよりも上手いな」
「お褒めに預かり光栄です」
着地の衝撃にじんじんする足の裏を宥めて、二度見たからという言葉を飲み込む。屈伸がてら目を向けたグラウンドの土の一部が濡れているのはたぶん、鶴丸によく似た彼が立っていた場所だろう。どうしてかは、分からないけれど。
「さて、それでは」
少しばかり長く地面を見すぎたらしい。頭頂部辺りを指で突かれて顔をあげれば、それは楽しそうな表情を浮かべた鶴丸が待っていた。そうだ、私たちがここへ何をしに来たのか忘れてはいけない。腕時計を確認すると、針はもう開始五分前を指し示している。
金の瞳を合わせて、数拍。どちらからともなく一つ頷いて駆け出した。
「ところで!どこから入るおつもりですか?!」
「生徒会室の窓を開けてある!」
走っているとは思えないほど淀みない声で半ば叫びもって鶴丸が曲がる。なるほどその先には確かに生徒会室があるし、このペースなら開始時間にこそ間に合わなくても悪く無い時間には到着できるはずだ。自分も彼も、運動能力にはそれなりに自信がある。
駆け抜ける途中、去年この季節なのに静電気が走ったから嫌だと子どもみたいな駄々をこねる鶴丸の代わりに生徒会室の窓を開けて慎重に飛び込み、手を掴んで引き上げる。先導権をすぐに返して無言で校内を駆ければ、姿勢のいい背中の上で白銀の髪がさらさら揺れた。
凛と伸びた背筋は揺るぎなく、彼はいつの世にも歪むことをしらない。ともに走る今に少しだけ戦場を思い出す。砂塵さえ味方につけて、舞うように斬り抜けるうつくしい刀。
それはかつての、あるいは、未来の。
「一期!!」
考え事をしていたのが良くなかったらしい。鮮烈な呼び声にはっと意識が引き戻される瞬間、階段からずるりと足が滑った。ゆっくりと傾く視界に映るのは、屋上へ続く扉、振り返った表情、伸ばされた白い掌。
ドン、腹の底へ響く音が貫いた。
「……ッ、勘弁してくれ」
屋上扉のすりガラスが明滅する。反射的に思い切り手摺りを掴んだ右腕も、冷たい手が握りしめる左手首も、重力の負荷を全て引き受けた場所が痛い。
散らかった息と早鐘を打つ鼓動をかき集める間にも、世界が光っては暗く戻り、また光る。暗闇と逆光は鶴丸の表情を酷く見えづらいものにして、言い得も知れぬ焦燥感に煽られる。何度も呼吸を繰り返し、それから、ようやく花火大会が始まったのだと気が付いた。
数段上でほうと吐かれた一つの溜息を合図に階段を踏み直す。謝るタイミングを逃したまま、一期の体勢が整ったのを確認した鶴丸がゆっくり階段を上り始める。熱い手首を握ったまま、今度は、外さないように。
「う、わ」
残された短い階段を上がりきると、錆びて軋む鉄の扉を開けるなり正面に花火が打ちあがって、さっきまでの出来事さえ一気に吹き飛んだ。あまりにも鮮明な色彩が、立っている地面さえあやふやにさせる。一期が屋上に出てすぐに足を止めてしまったから、鶴丸も横に立って花火を見上げることにした。
「…花火見たの、久しぶりです」
「都会じゃぁこうはいかないだろ」
「そうですね」
高層ビルもなく、街頭だってほとんどない。真っ暗な夜空に花火は殊更美しく映えて目を奪う。赤、黄、緑、橙、紫、白。咲いては散って、燃えては消える。田舎は娯楽が少ないからこういうところで手を抜かないのさ。そうやって笑った彼が果たして記憶の中なのか、電話の向こうだったのか、分からなくなった。
けれど今また鶴丸の隣で花火を見て夏を過ごす、今が現実であるならこれ以上何を望むだろう。
「この街にこれて良かった」
「…そうか」
隣で鶴丸が笑った気配がした。古風な柳型から、数年前に導入されたという変わり種まで様々な花火が咲いては散る。一発ずつ丁寧に打ち上げられていた花火はいつしか断続的に開き始めて街中にクライマックスを告げた。
ああ、終わってしまう。いま、私たちの時間は有限で、だからこそ輝くものがあると分かっていても名残惜しい。喜びと物悲しさとが綯交ぜになって、どうしようもない感傷さえ愛しくなる。
まるでそんな一期の体温から逃れるように、不意に手首が自由になった。冷たい手が離れた肌に湿度が生温く纏わりついて、ようやくずっと握られていたことに思い至った。
声がつかえて名前を呼ぶ間も無く、手を放すと同時に前へ歩き始めてしまったから鶴丸の顔は見えない。三歩、四歩、五歩、進む分だけ一期から離れていく鶴丸を、花火が彩る。ゆらり、火花は風に浚われる白銀の髪一本にさえ反射して、半袖から出た白い肌へまで染み渡る。その様はまるでキャンバス。彼が彼の色を取り戻す間もなく立て続く花火がキャンバスを染め上げた。
「なぁ一期」
鶴丸が振り返る。その背を守る白の羽織が風を含んで鎖が舞い上がる、金の幻想。
打ち上げの音を攫い火花を蒔く夏の風が屋上を駆け抜けた。
「俺は、きみが」
ドドン、今宵一番の音が地を揺らし、軌道は一層高く、高く昇って行く。
「――と―好きだった」
一等大きい花火に視界が明滅して、笑う鶴丸の頬が光って見えた。見えた、けれど見えただけで何も分からない。過去形の理由も、音に呑みこまれてしまった言葉も。
ぱらぱら、砕けて散る、散る、ちる。彼の向こうで夜空に咲いた花が、穏やかな低い声が、冷たくて白い指先が。花火と命を共にするように、突如、鶴丸が喪われていく。彼が砕けた欠片さえも花火が彩り鮮やかに魅せて動けない。
待って、と、叫べたら良かった。
どうしてと浮かぶ自問は、見ぬふりをしていた違和の答えを導き出す。生徒会室へ先に入ることを幼稚に拒んだ答え。一階から共に駆け抜けたはずの手がつめたかった答え。欠け行く体が地面から浮いている答え。こたえ。
ひゅうと喉が鳴った。それをたぶん、本当はどこかで分かっている。
「鶴丸殿!!」
声と同時、弾けるように体が動いた。一歩、二歩、三歩、コンクリートを思い切り蹴って体を押し出し、めいっぱい手を伸ばす。届くなら腕が千切れたっていいと思った。鶴丸を喪いたくない情動だけが一期を突き動かす。
だのに、当の本人はこちらの思いは知らないというみたいに、薄金の望月が三日月を描くなんてやめて欲しい。だってそんなの、諦めるしかないみたいじゃないか。
「なんだ、きみも、」
あと、半歩。僅かな距離を冷たい口付けが埋めた。
「憶えていたんだな」
声の残響と光の粒子だけが僅かに纏わりついて、あかい火花とともに霧散していく。まばたきは、三度だけ。たったそれだけでまるで何もなかったみたいに世界から音も光も無くなってしまった。
今は、もう、そこには暗闇があるばかり。
ラグランジュ・ポイント
(きみが、ずっと好きだった)
(一人の時も、ずっと)