この世界は全てが狂っている。
だけど、誰にもどうする事も出来ない。
僕でさえも。
任務を終え疲労や傷が積み重なった身体を引きずりながら家に帰宅すると玄関に革靴があった。
黒く艶めく靴に見覚えはあるが生憎と僕の物ではない。大きいのだ、1.5cm程。侵入者かと思ったがそれにしては綺麗に揃えて置いてあるし、気配察知しようと全神経を鋭敏にしても誰の気配も感じなかった。
不可思議な事だが、危険性がないなら問題ない。それよりも連日続く戦争と軍部会議による疲労の方が深刻で靴を脱ぐとリビングに向かう。
そこで、また、奇妙な事。
リビングに行く途中のキッチン。僕は一人で暮らしていた筈なのに食器棚には茶碗やマグカップなどの茶器や箸が二つあるのだ。リビングに視線をやればソファの下に畳んだままの洗濯物があったが僕が着た覚えのない服もある。
――まさか。
そう思って急いで洗面所や仕事する為の自室、寝室、そして使っていない部屋を見回る。自室は特に何も異変は無かったが、洗面所には色違いの歯ブラシが二本あり、寝室は何故かベッドがダブルと一人で寝るには明らかに広過ぎて、極めつけは使っていない部屋には見覚えのない箪笥や机、本棚がある。
生活感のある部屋。明らかに誰かと一緒に住んでいた痕跡。なのに自分は一切覚えていない。
これは――…
「よォ、ヒバリ」
「…赤ん坊。幾ら貴方でも勝手に僕の家に入って来ないで」
「そう言うな。俺とお前の仲じゃねぇか」
「……何の用?」
振り返れば玄関で靴を脱ぎ家主の許可無く勝手に部屋に上がるのは黒のボルサリーノを被った黒いスーツの青年。赤ん坊と呼ぶ理由はあるが、言及されていない以上呼び方を変える気はない。序でに彼の実力を認めてはいるが、決して親密な仲などではない。
用件を聞けば何かを放られ、それを片手でキャッチする。掴んだ掌を開けば金属製で作られたネームタグがあって、そこには六道骸と名前が彫られている。地獄と死体なんて偽名としか思えないような、ふざけた名前。
「記録によれば、この男はボンゴレ幹部でお前と住んでいたらしいぞ」
「……は?」
思わず洩れた間の抜けた音。僕が誰かと住む…?全く考えられない事だが、家の中はその証拠だらけ。否定しきれないのが事実だった。
この世界は、今を生きる人間が怨恨を残さぬように、前へと進められるように死者に関する記憶は全て消される。友人も家族も、恋人すらも。誰一人例外なく死者の存在を忘れてしまうのだ。
そういう風に、自然の摂理として決められている世界。だから人間は自分が生きて此処で死んだという証を残す為に生誕時に配られたネームタグを肌身離さず持っている。
国や軍などの組織の関係者なら書記官が幹部達の動向や発言を紙面に記載もするし、一般人達なら親しい誰かに『自分は貴方と生きていた』という事を伝える為に日記を残す事もある。
ボンゴレという組織は自警団でありながら国に匹敵する程の実力があり発言権も持っている。だからボスは当然ながら守護者と呼ばれる六人の幹部達も地位が高く、その言動には何かと注目されていて書記官や諜報員が至るところで耳を傾け目を光らせていた。
この青年も書記官から六道骸の情報を得ていたのだろう。
ならば紙面を見た方が早い。そう思って片手を差し出せば緩く頭を左右に振られた。
「駄目だ」
「何で」
「コイツは六道骸が関わった軍事や任務の事しか記載していない。六道骸の事を知るには不適切だ」
いつの間にか手にしている書類の束をひらひらと振る様子に無意識に眉根を寄せてしまう。だが、所詮既に死んだ人間。記憶にない人間の事だ。僕と一緒に住んでいた等と理解が出来ない事ではあるが、記憶から抹消された人間を見つめるよりも前に歩みを進めた方が良い。他国との戦争はまだ終わっていないのだから。
「ならどうでもいいよ。荷物は処分するなり国が持ってくなり好きにすれば?」
死んだ人間に興味はない。そう思って突き放したつもりだった。それで去るかと思えば赤ん坊はその資料を見ながら喉奥を震わせるような笑む音に自然と眉根が寄る。何、と不機嫌そうに問えば先程は見せてくれなかった資料を差し出して文字が羅列された紙の一部を指差す。
「なぁ、ヒバリ。記録によるとこの男はお前をズタボロに打ち負かしたらしいぞ」
それには眼を見開いてから即座に差し出された書類を引ったくる。紙面上に確かに『XX年9月9日。雲雀恭弥、六道骸、廃墟にて戦闘。幻術により無傷で六道骸の勝利』と一切の詳細は省かれた淡々とした文が記載してあった。戦闘の詳細がないと言う事は任務とは違い個人的な戦闘だろう、しかも今よりももっと若かった時の事だ。それ以来何度か戦闘をしているが六道骸の敗北との字をただの一度も見る事は無かった。
書記官は嘘の記述などしない。虚偽の文章を記載すれば国家に背いた謀反、及び他国のスパイと見做され懲罰は勿論の事、無期懲役、最悪の場合は死刑になるほどの重罪になる。
余程の命知らずならともかく、味方であり真っ当な人間が虚偽の報告をする筈はない。だからきっとこれは正しい情報なのだろう。
記憶にある限り、僕が負けた事はない。性格を考える限り敗北なんて屈辱を忘れる筈がない。僕に屈辱を与えた男と一緒に住むなんて、以前の僕は何を考えていたのやら。
だから。
―――前言撤回。六道骸に興味が湧いた。
「顔つき変わったな、ヒバリ」
「興味を持たせたのは貴方でしょう?」
「俺も興味があったんだよ。お前が他人と暮らすなんて想像付かなくてな」
「仮に六道骸について分かった事があっても貴方に教えないから」
「ちッ、つれねぇな」
残念そうな言葉なんて知った事か。失った記憶を辿るのに他者を介入させたくない、記憶自体が良い物である可能性も少ないのだから。
赤ん坊を睨み付ければ肩を竦めてひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。どんなに粘っても僕が教える気はないと察して諦めたらしい。
僕以外の誰も居なくなった室内で一つ息を吐いたところで手にしたままの書類に気付く。返し忘れた事に気付くが、あの完璧な赤ん坊の事だ。彼が書類を返して貰うのを忘れたなんて事はない筈。
そこまで僕と六道骸の間柄に興味があるのだろうか、…僕を知る人間なら多少なりとも驚き、人によっては興味持つだろう。
少なからず僕に何らかの影響を与えたに違いないのだから。
「……六道骸、」
一人になり静寂に満ちた部屋で名前を呼ぶと、もう手元にない記憶の中で唇が柔らかく弧を描いて、ゆっくりと開く。
『 』
声は聞こえないし、どんな音をしているかも分からないのに空気が少し震えた気がして。
もう一度呼んだ声は音もなく宙に溶ける。
その瞬間胸に虚ろなものを抱えた気が、した。
END