はい。皆様どうもです♪
旧式のガラケーを使っているのでブログの機能が上手く作動しなくて四苦八苦しています燈乃さんです。多分設定の問題(泣)

さて。今回は前回載せた短編集作詩の、各々の作詩に関する即席型の解釈的解釈兼反省文を綴りたいと思います。文字数の都合上泣く泣く二段構え仕様になりました←
何分ダークな内容なので、多分いつもより若干暗め(比較的)になると思いますが、それでもよろしければどうぞっ!!(滝汗)





『焦燥』
⇒いらだちあせる。気があせるの意。
作詩ではこれに不安も混ざってます。

自分の意図しない処で鼓動が鳴っている。足を踏み出さないと前に進めないと知っていても、不安と葛藤ばかりが先走って、焦燥の色が濃くなって行く。それでも、足掻きながら心を引きずりながら、生きていく。そんな様子を綴ってみました。自分の知らない場所に進むのはいつだって恐怖が伴うものです。その一歩がどんな色でも。

作詩の最後の方は、ほんのりと微かな希望が見え隠れしている仕様になってます。





『共感の悪魔』
⇒常日頃思っている事を綴ってみました。常日頃思っている事を綴ってみました。
(※大事なので二回リピートしてみます)

人間社会に共感は欠かせません。人間でいる以上、人間として生きている以上、人間としての『物差し』が必要なようです。
別に共感そのものを敵視している訳ではありません。共感が無ければ、思いやりも優しさも愛情も生まれない訳ですからね。

ただまぁ。人間をどんどん突き詰めれば、外側(外見)から内側(内面)に向かうに連れて、その個人との理解や許容と言った距離は自然と反比例していくものだなと。
(※個人を全部が全部理解出来るわけが無いので多分これが極自然の普通の反応)

だから。他人からの意見を仰ぐ為じゃなくて、自身の意見の肯定の為に、他人からの共感を利用する人間は物凄く不愉快。
『だったら別に訊かなくても良いじゃん』と言うのが良い例です。自己の肯定の為に他人を否定すれば、その人間の周囲の人間関係は容易に勝手に歪んでいきますよ。

そんなのは最早共感ですら無いんですが。周囲との価値観の差異や、挙げ句の果てには感情まで自分勝手な都合で振り回す輩もいるのが滑稽です。多分そう言うのは碌な死に方しないので放っておきましょう。

個人的に共感よりも傍観の方が良い。別に万人に理解されなくても呼吸は出来る。





『自己愛』
⇒転じてこれは自己嫌悪の話です。他人に合わせて人格を偽る話です。嫌われたくなくて道化を演じる話です。影で誰かを呪っている話です。生きるのが辛くて苦しくて悲しくてそれでも死にたくないから生きるしかなくて救いようの無い話です。他人を煩わしいと罵っても孤独は寂しいと嘆く話です。どうしようもなく弱い人間の話です。脆弱過ぎる人間の自己嫌悪の話です。

登場人物は未決定です。私かも知れませんし、他の誰かかも知れません。けれども、これはどうしようもない人間の話です。





……はい。今回も今回で長くなってしまいましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました。大分暗い内容でしたが、次回も多分こんな感じのが続きます(殴)

光よりも闇の方がヒトを色濃く照らすとは、然程不思議ではありませんので(黒笑)



ではでは、今回はこの辺で☆



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