「まったく、ついてないわねぇ……」
そう呟いて、不機嫌そうに唇を尖らせる、赤と緑の瞳の女性。
ポタリ、と長い茶の髪から雫が落ちる。
それを見て少し眉を寄せた付き添いの少年騎士……フィアはポケットから真っ白いハンカチを取り出して、彼女に差し出した。
「陛下、これをお使い下さい、濡れたままではお風邪を召されます」
そう言われて彼女……イリュジア王国女王、ディナは視線をフィアの方へ向けた。
そしてすぅと目を細めると、彼が差し出したハンカチを受け取り、それでフィアの顔を拭った。
「ちょ……陛下?」
「それは貴方も同じことよ、フィア」
女の子に冷えは禁物。
そういいながらフィアの顔と髪とを軽く拭ってから、彼女も自分の濡れた髪を拭った。
「……俺は、別に」
「平気、とは言わせないわよ」
ちょん、とフィアの唇をつついて、ディナは笑う。
フィアはそんな彼女の行動に少し視線を揺るがせてから、素直に"ありがとうございます"と礼を言った。
ディナは微笑んで首を振ると、逆にすまなそうな顔をする。
そして少し湿っているフィアの亜麻色の髪を指先で払って、言った。
「ごめんなさいね、こんな日に外に連れ出してしまって。
まさか雨が降るとは思っていなかったのだけれど」
そういいながらディナは空を見上げた。
先程までは綺麗に晴れていた空。
それがどういう訳か今は雨模様である。
唐突に降り出したそれを避けるように、フィアとディナとは近くにあった古い建物の屋根の下に逃げ込んだのであった。
「私一人では、出掛けさせてもらえないから……いつも貴方たち騎士に迷惑をかけてしまって申し訳ないわ」
「当たり前です、陛下をおひとりにするわけにはいきませんから」
この国の女王なのだから、とフィアはきっぱりと、そういう。
それを聞いて苦笑するディナを見て、彼はふっと表情を綻ばせながら、"それに"と付け足すように言った。
「俺たちは迷惑だと思ったことなど、ありませんよ。
今回は特に……陛下の御姉様の元に行くことに供をさせていただけて嬉しいほどです」
フィアにそういわれて、ディナは目を見開いた。
それからふっと、微笑みながら"ありがとう"という。
そして空に視線を投げた。
「……泣いてるみたいね」
不意にそんなことを言い出すディナ。
それを聞いてフィアは彼女の方へ視線を向けた。
彼女の横顔は酷く寂し気だ。
フィアはそれを見て、彼女にかける言葉を探す。
寂しいのは、悲しいのは、当たりまえなのだ。
先程まで彼らがいっていた場所が場所だから。
……先程まで彼らがいたのは、墓地。
ディナの両親と、双子の姉……ディアノが眠る墓地だったから。
ディナを人々の心ない中傷から守るため、自らの命を絶ったディアノ。
特殊な力を持ち、苦しかったのは、寂しかったのは、辛かったのはきっとあの子の方だったのにね、とディナは言っていた。
悲し気に、寂し気に……
血の繋がった双子の姉を失った彼女の悲しみは想像など到底出来るものではない。
しかもそれが自分の所為だと彼女はそう思っている。
それなのに笑顔で国を治めることが出来ている彼女は、強い。
フィアはそう思っていた。
「……泣いても、良いのではありませんか」
零れたのはそんな言葉だった。
思えば彼女が泣いているところは見たことがない。
いつでも穏やかに微笑んでいる。
きっと泣きたいような辛いことも悲しいことも、たくさんあるだろうに……
フィアはそう思ったのだ。
ディナはそれを聞いて少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑って、首を振った。
「ダメよ、だって私は……」
―― 女王なんだもの。
ディナの言葉に、フィアは大きく目を見開いた。
それから視線を伏せる。
先程の自分の発言を取り消したい衝動に駆られていれば、彼女はくすくすと笑って、言った。
「ごめんなさい、少し意地悪だったかしら。
でも貴方を責めているつもりはないのよ?」
私が女王なのは事実だしね。
そういいながら彼女はまた空に視線を戻した。
それからふっと微笑んでいう。
「でも女王だから泣かないというのは本当。
少なくとも今は泣かない……泣けないわ、だって」
そこで一度言葉を切って、彼女はフィアに視線を向ける。
瞬く蒼い目を見つめて赤と緑の目を細めながら、彼女は言った。
「貴方がいるんだもの」
「俺が?」
何故、とフィアは問う。
それを聞いてディナは美しく、嫋やかに微笑んで、言った。
「貴方も私が守るべき民の一人だからよ。
国のトップである私が泣いていたら不安にさせてしまうかもしれないでしょう?」
だから泣く訳にはいかないのよ、といって微笑むディナ。
フィアはそれを聞いて幾度か瞬きをした後、少し眉を下げた。
「……俺は」
上手く言葉がまとまらない。
伝えたいことはたくさんあるのに。
そう思いながらフィアは暫し目を伏せていたが、やがて覚悟を決めたように一つ息を吸って、言った。
「確かに不安になることはあるでしょう。
けれども俺は、貴女がそうして涙を堪えているうちに、壊れてしまうことの方が恐ろしい。
人間は脆いものです、簡単に壊れてしまう、だから」
泣きたいときは、泣いても良いのですよ。
フィアは静かに、そういった。
「ふふ、貴方らしい言葉ね、フィア」
「……申し訳ありません」
少し照れくさくなってか、視線を逸らすフィア。
ディナはそれを見てくすりと笑って、首を傾げた。
「貴方にそれを教えてくれたのは、ルカかしら」
「な……?!」
ばっと、フィアは顔を上げる。
その頬は薄紅色だ。
ディナはそれを見て"図星ね"といいながらくすくすと笑った。
「男として生きることを決めた貴方だもの、きっと泣かないでいようとするに決まっているわ。
それはきっと簡単なことじゃない……
だからルカは、貴方をそう、励ましたのでしょう?」
「……陛下には全て御見通しのようですね」
まいりました、とフィアは肩を竦める。
それから顔を上げて、困ったように微笑みながら、言った。
「確かにルカの受け売りですが、俺もそう思っています。
だから、……どうか、陛下も、無理をなさらず。
俺は陛下の笑ったお顔が一番好きではありますが、それが無理をして作ったものなのだとしたらあまりに悲しい」
フィアがそういうと、ディナはこくりと頷いた。
そして、愛しそうにフィアの額に軽い口づけをして、言った。
「ありがとう、フィア。
そう貴方が思っていることが私にも何より嬉しいわ」
その言葉だけで、元気になれるの。
ディナがそういうと、フィアも表情を綻ばせた。
「そういっていただけて、俺も嬉しいですよ」
ぽそり、呟くようにフィアがそういうと同時、さぁっと光が差し込んでくる。
どうやら、雨が止んだらしかった
ディナとフィアとは顔を見合わせる。
そしてどちらともなく歩き出した。
空には鮮やかな虹がかかる。
それを見たディナは小さく笑って、"雨も悪くはないのかもね"と小さく呟いたのだった。
―― 雨の後には ――
(雨の後には虹が出る。
きっと人間の感情もそれに似ているのだと、そう思った)
(涙の後にはきっと、素晴らしい笑顔を浮かべられるはずだから。
だからきっと、泣くことは悪いことではないはずだ)