山の背が白く染まる頃、レンはゆっくりと目を開けた。隣ではミクがまだすやすやと小さな寝息をたてている。気が抜けていたのか、寝ているうちに戻ってしまった姿を人のものに戻す。
(ミクさんが起きる前でよかった)
自分が人でないことを、いつか伝えなくてはならないのだろう。人を食らい、人に追われる獣を、果たして彼女は受け入れてくれるのか。彼女の目に恐怖の色が宿ることを思うと、レンは未だそれを言い出せずにいた。
何度目かの、ミクと迎える朝。静寂の檻の中、ひんやりとした空気に包まれていると、世界に二人きりになったような感覚に陥る。以前、土間で寝ていた頃にはなかった感覚だ。
「レンくん……?」
もぞりと身動きをしたミクの瞼が重たげに開く。まだ半分夢の中にいるようで、ぼんやりとしているミクの髪を、レンはできるだけ優しく撫でた。彼女に触れる時はいつも恐ろしい。少し力を入れれば、容易く破れてしまいそうな薄い肌。その下に流れる血を想像し、ごくりと喉を鳴らした。今まで見てきたどの人間よりも、彼女は脆く感じた。
「外に出てくるから、ミクさんは、まだ寝てていいよ」
体を起そうとするミクを制し、戸口へ向かう。くらくらしているのは、寝起きのせいだろう。彼女の傍にいると、出逢った時に感じた郷愁が、強くなっていくような錯覚。自身のことはミクもよくわからないらしく、ただ蟠りだけが広がっていた。
足早に山道を下り、街道を出て橋を越え、木助の家へと辿り着く。そこで丁度、桶を持って出てきたおしげと鉢合わせした。レンの姿を見ると、老婆はぱっと嬉しそうに笑う。
「レン、よく来たねぇ。久しぶりじゃないのかい」
「しげ婆、一昨日来ただろう」
「おや、そうだったかい。お前がいないとどうも時間長く感じるね。早く入りな、木助さんも中にいるよ」
「うん」
ミクの家に住み着くようになってからというもの、木助の家にはそれなりの頻度で顔を出している。人間の足でここまで来ると半刻ほどかかってしまうのだが、獣道を通って泥だらけになった姿を見たおしげに仰天されたため、街道を歩いてこちらまで来るようになった。黙って出て行ったことを窘められたものの、こうして来れば歓迎され、帰りには手土産を持たされる。ミクのことについて老夫婦が言及することはなく、「いつか会わせてほしい」とだけ言ったが、人に会いたがらないミクのこと、それは不可能なように思えた。
その日も木助と共に川へ釣りに出た。不器用な手つきながら道具を使って魚を取ることに慣れてきたレンは、日が傾く頃には四匹ほどのヤマメを釣った。魚籠に大量の魚を入れた木助とおしげの元へ戻り、魚を手に上機嫌でミクの家へ帰る。
(遅くなってしまった。ミクさんは、待っていてくれるだろうか)
家の中、一人きりでいるミクを思い足を速めた。日は落ち、西の空にわずかな明かりを残す程度になっている。
山に入ったところで、レンの元にひらりと一羽の鴉が舞い降りた。青い瞳の鴉はくるりと首を傾げると、抑えきれないように嘴を開いた。
「ああもう、本当に困った奴だ。俺はおまえを探してあちらこちら飛びまわる羽目になったんだぞ。お陰でくたくただ。それなのにおまえときたら人間の女にうつつを抜かした挙句、人間ごっこをしているときている。全くもって迷惑な奴だ」
うるさい奴が来てしまった。きっと里の婆と姉が寄越したのだろう。くたびれた羽を膨らませ、鴉は不服そうに続ける。
「あの娘をどうするつもりなんだ。獣の内にでも、引き入れるつもりか」
「そんなわけないだろ」
「じゃあどうするつもりなんだ」
「おれが人の内に沿うしかないだろう」
鴉は驚いたように青い目をぱちくりとさせた。
「獣のおまえが人の内に入れると、本気で思っているのか」
今日こそ、彼女をあの家から連れ出すつもりだ。次にあの男が来る前に、彼女を連れて、逃げてしまおう。ミクが嫌がっても、そうするつもりだ。好きだと言ってくれた言葉が嘘ではないのなら、レンと共に行くのが嫌だという訳ではないのだろう。何処へでもいい。彼女が嫌だと言うのなら、あの老夫婦たちのように人里離れた場所でいい、別の所へ身を移そう。レンはそう決めていた。
「相当骨抜きになってるな」
「なんとでも言え」
レンは鴉を置いて歩き出す。
「待てよ!頭首候補のお前がいなくなったらどうするんだ」
「候補はおれ一匹じゃない。そいつらが代わればいい」
そう言い捨て、レンは山の中へ消えた。その背を見つめながら鴉は呆れたように言った。
「姫さま、俺を使わすにはどうやら遅すぎたみたいだよ」
意を決し山道を登っていたレンは、ふと鼻先を掠めた臭いに顔を顰めた。
(あの男か)
ざわりと全身を殺意が巡る。嫌なものが胸をよぎり、レンは咄嗟に獣の姿に戻っていた。薄い血のにおい。間違うはずもない、ミクのものだ。それは家に近づくほど、濃くなっていく。明かりの灯らない家が、黒い影となってそこに佇んでいた。不気味なほど静かな中、自分の荒い息遣いだけがやけにうるさく聞こえる。人の姿をとるのも忘れ、レンは半開きの扉を撥ね退けて家の中に駆け込んだ。噎せ返るような血のにおいが、小さな家を満たしている。紅く伸びた血溜まりの中心に、ミクは倒れていた。
(ミク、さん……?)
氷の芯を体に打ち込まれたように、一瞬で冷える。あれほどうるさく鳴っていた鼓動が、ぴたりと止んでいた。ぎこちない動作で近づくと、ミクの肩がわずかに上下しているのが見て取れる。ぎし、ときしんだ床の音で、彼女はゆっくりと焦点の合わない瞳をこちらに向けた。もうほとんど見えていないであろう瞳に、獣の姿が映る。彼女はレンを見て、薄く笑う。
「……よかった」
浅い呼吸を繰り返すミクの唇から、小さな声が漏れる。
「あなたに、お願いが……あるの」
そう言って咳こんだ口から、血が溢れた。広がった血が、ひたりとレンの爪先を濡らす。胸の傷口から、絶え間なく血が流れ出している。助からないことは、明白だった。
「おねがい、わたしを……食べて。こんな、姿……レンくんにみられたく、ない……」
湖面のようなミクの瞳が揺らぎ、涙が一筋、頬を伝い落ちる。
「ミクさん、」
声は、一瞬で静寂に溶けた。鼻面を寄せても、反応はない。弱々しかった呼吸は、完全に消えていた。体中の力が抜けていくのを感じた。彼女の血と混ざり、全て溶け落ちていくような感覚。
どれくらいそうしていただろうか。長かったようで、一瞬かもしれない。涙を流して動かなくなっているミクと、目が合った。
「ミクさん」
レンは、緩慢な動作で口を開く。まだ温もりの残る体に牙をたて、柔らかい肉を裂き、骨を砕き、喉の奥に流し込む。ミクの味が、痺れた体に浸透していく。小さくなっていくミクの体を、どこか夢心地で眺めながら、レンは初めて人と同じように涙した。
全て食らい尽くし、ふらりと立ち上がると、獣は外へと歩き出した。山の斜面を下るうち、足はどんどん速度を増す。人間ならばよく見えないであろう暗い山道を、勢いよく駆け下りていく。街道を抜け、橋を越え、矢のような速さのまま人の集落へと出る。家屋の隙間を縫うようにして飛び出したところで、提灯を片手にふらふらと歩いていた人間と出くわした。短い声をあげたそれを無視して獣は走り続ける。どこへ向かえばいいのかは、わかっていた。あの臭いが続く先、一際大きな屋敷の垣根を一息で飛び越えた獣は、ミクが兄と呼んだ男の首に鋭い歯を食い込ませた。力任せに食い千切ると、ごり、という音とともに勢いよく血が噴き出す。胃がむかつくような臭いが口内を満たした。
「……不味い」
肉片を吐き捨て、獣は一言、そう言った。男は何が起こっているのかわからない様子で吐き出されたものに手を伸ばし……そのままずるりと崩れ落ちる。絶命した男を見て、部屋の奥にいた女が思い出したように悲鳴をあげた。獣は冷えた眼差しで男を一瞥すると、夜の闇へと消えた。
その後、山に獣が出るという話はなかったという。
終