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日本の教科書では台湾が中国の一部になっている

話題:政治

今年の三月に日本の出版社が出した国定教科書において、台湾が中国領土と表記とされている事がわかった。この教科書は意外な事に日本の文部科学省の審査を通ったものであり、来年から日本全国の公立中学校で教科書として使用される事となる。日本李登輝友の会はこの誤記を発見し、すぐさま出版社と文部科学省に対して講義を行い、ネットを通じて台湾を中国とは別に表記するように署名活動を行った。既に日本では署名が100万人を超えている。

このニュースが日本で報道されると、日本では国民の中で議論が巻き起こった。

産経新聞の7月23日の社説では、論説委員の石川水穂が特別寄稿を行った。その文中において、1951年におけるサンフランシスコ講和条約(昭和26年調印)では、日本は台湾と澎湖諸島に関する権利を「放棄」するとなっており、決して中国に「返還する」となったわけではない。その為、台湾の主権が中国に属する根拠はないのだ。

当時、日本の大平外相は帰国後の自民党両院議員総会で、こう報告している。

「中国側は中国の領土の不可分の一部と主張し、日本側はそれに対して『理解し尊重する』とし、承認する立場をとらなかった。つまり、従来の自民党政府の立場をそのまま書き込んだわけで、日中両国が永久に一致できない立場をここに表した」

つまり、日本は一度も台湾が中国領土であるとは主張した事はないのだ。石川水穂は日本とロシアの北方領土における対立と、台湾の主権問題を比較しながら、日本政府は学生達に正しい台湾の歴史を教える事を望むと語った。これに対し、日本国民の間では大きな反応が起こり、日本李登輝友の会は座談会を開いた。これを読む限り、かつて中国と対立した東北の宮城県仙台市の梅原克彦元市長を思い出すだろう。当時、仙台市は台湾の台南市との姉妹都市協定を締結しようとしていたが、中国が大使館を通じて妨害工作を延々と行ったのだ。中国のこうした台湾を封殺しようとする行為や態度は、我々の友人にも敵対行為として映っているのだ。

悲しいけどホントの話
↑はうちの大学で使われてる
中国語の教科書のあるぺージです
はっきりと台湾省と書かれてしまってます

人権差別撤廃条項と牧野伸顕


話題:わが国、日本について

お久しぶりです。
今までの記事をすべて消してみました。
また更新を続けて行きたいと思います


牧野伸顕 政治家。
文相、農商相、外相を歴任。 宮内大臣、内大臣を務め、宮中の重鎮であった。伯爵 (牧野伸顕の娘である雪子が、吉田茂の夫人。)
パリ講和会議では次席全権を務め、各種委員会の実質的なリーダーとなる。あの時代の偉人が多くそうだったように悠然たるたたずまいで清貧。


国際連盟に対して、日本として、何か画期的な提案を盛り込むことはできないか。
牧野は、やがて、人種差別廃止という理念を、国際連盟の規約に盛り込んではどうかという提案を思いつく。
人種差別廃止案は、政府の訓令の中にあった、黄色人種であることを理由に不利益を被らぬように、
という一文がヒントだった。この訓令の裏には、明治以来、西洋諸国に移住した日本人が、肌の色を理由に、
様々な差別を受けていると言う事情があった。カリフォルニアなどでは「日本人お断り」と書かれた看板が掲げられることもあり、さまざまな迫害を受けていた。
1919年2月、牧野は、人種差別廃止という画期的な提案を胸に秘めて、会議の場に望む。ところが、この日、議長のウィルソンが、国際連盟について議会の協力を取り付けるため欠席。代わりに議長を務めることになったのは、イギリス全権の一人、ロバート・セシル。
牧野が提案するや否や、セシルは猛反対した。人種差別廃止は、植民地を多く持つイギリスの国益に反するからである。
人種差別廃止の規約とあれば、イギリスは、 有色人種の人々に、イギリス人と同等の権利を認めざるを得ず、ひいては、植民地の独立を招くことになる。議長セシルは、採決の必要なしと断定し、日本案を却下する。
そんなある夜、アフリカのリベリア人が牧野を訪れ、『人種問題で奮闘してくれてありがたい。自分たちの迫害を受けている実態はこうだ。しっかりやって欲しい』と語った。
また、アイルランド人の女性がきて、『自分の国は、イギリスから歴史的にひどい目にあっている。我々の境遇を察して演説してもらいたい』と牧野に頼んだ。
日本が提出した人種差別廃止案は、はからずも、大きな反響を呼んでいたのである。
1919年4月、国際連盟の規約を決する最終会議が開かれた。参加者は18人。議長は、アメリカから戻ったウィルソンである。冒頭、牧野は、すかさず立ち上がり、人種差別廃止修正案を提出した。
『各国は、全て平等という主義にのっとり』と言う一文を、連盟設立の趣旨をうたう全文の中に入れたいと主張する。
理念としての平等ならば、誰も反対はできないはずだというのが、牧野の考えだった。 賛成をためらっていた各国のうち、まずイタリアが日本案に賛成を表明、 続いてフランスも賛意を表す。相変わらず反対のイギリスを除き、会議の大勢は決していた。ところが、議長ウィルソンは、『民族平等の原則は、すでに連盟の基本的原則になっている』と言葉を濁して、採決を渋る。
日本の人種差別廃止案に反対する国内世論を気にしたウィルソンは、賛成するわけにはいかなかったのである。
だが、牧野は言い放つ。『この案は、日本国民のゆるぎない意思である。採決を』
ウィルソンは、しぶしぶ採決を取った。賛成は、日本、フランス、イタリア、中国など11票。
反対または保留は、イギリス、ポーランドなど議長を除いて5票。11対5で、日本案の圧勝であった。
だがその時、議長ウィルソンの口から、思いもよらぬ言葉が飛び出した。
『日本の提案は、成立しなかった。全会一致の賛成が得られなかったので、採決されない』
会議は騒然となった。『これまでは全て多数決だったのに、なぜ、今回に限って全会一致を必要とするのか』と言う牧野の抗議に対し、
ウィルソンは平然とこう答えた。『このような重要な問題は、全会一致でなければならない』間発をいれず、ウィルソンは、否決を宣言した。
牧野は言った。『日本案に対し、過半数の賛成票があったことを、議事録に記述するよう希望する』
これが、ウィルソンに対する牧野の精一杯の抗議だった。

1919年6月、パリのベルサイユ宮殿で、26ヶ国が講和条約に調印。
国際連盟は、国際条約の第1条において、設置を宣言される。
しかし、その後、国際連盟を提唱した当の国であるアメリカが「議会の反対を理由に不参加」を表明。
国際連盟は、当初の理想とはかけ離れた形で成立せざるを得なくなったのであった。

「国際連盟の前途のために憂う。機会あるごとに必ずこの問題は持ち出す」と牧野は総会でそう演説した
閉会後、英首相のロイド=ジョージがやってきた
彼は牧野の手を握り、言った
「私は日本の態度に敬服する」


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