「消失古泉くんだー」
ふと朝比奈さんが口にした言葉が耳に入って顔を上げた。
小一時間前と変わらない姿勢で俺のパソコンを操作している朝比奈さんの背中に視線を向けるも、彼女は俺の視線には気づかずに画面を見続けている。
「これは初見」
同じく画面を見ている長門が呟く。
“涼宮ハルヒの消失”なら4人でレイトショーに観に行っただろうに、と思ったが、聞こえるのはマウスをクリックする音だけで、音声やBGMが一切出ていない事に気づく。
隣でPSPをカコカコさせている古泉を越えた向こうの棚には、予約特典付き特装版ブルーレイディスクがパッケージのまま収まっているのを見て軽く首を傾げたが、何かサイトでも見てるんだろう。そういや新作ゲームが出るんだったな、追想だったか、あれ確か消失が舞台だったよな、などと短時間で思考を巡らし終えて手元のPSPに視線を戻した。
俺の部屋に3人が集まり4人で遊ぶのは珍しくもなく、4人で居ても大体はこうして2・2で好き勝手に遊ぶ事も多い。
デートもしたい、友達とも遊びたい。
そんな要求を同時に叶える合理的な過ごし方だと思っている。
この過ごし方のどこにデート要素が含まれているのかは判らんが、誰も気にしていないようなので俺も気にしない。
そんな訳で、パソコンの中に朝比奈さんに見られて困るデータがない訳ではないが、頑なに隠す程のものでもないので、断りを入れてくれれば自由に使っていいですよ、と言ってある。
つまりSOS団のパソコンと同じく、俺のパソコンにはMIKURUフォルダが存在している訳だ。
こっちのMIKURUフォルダは本人が使っているブックマークフォルダな訳だが。
家族共有のパソコンしかない自宅では見辛いとBLサイトを閲覧されていた時はかなり脱力したが、まぁ何か登録されたりは困るが閲覧だけなら構わないからな。
ちなみに、こんな事を悠長に考えていられる現在、隣にいる古泉とは通信プレイ中ではない。
オンラインクエストを終えて、お互いに農場で収穫中だ。
「さっきのクエスト、もう一度いいですか?紅玉が出なくて」
「そういう事を口にすると物欲センサーが働いてだな…」
「杉田が可愛い」
相も変わらないモンハンライフな俺たちの会話に混ざって妙なセリフが聞こえたぞ。
「本当だ、キョンくん若くて可愛いですぅ」
どんなサイトを見てるんだか知りませんが、ややこしいので名前は呼ばないでいただけませんか朝比奈さん。
と、言おうとして気づいた。
俺たち4人には、誰からともなく決めたルールがあり、言い間違えない限りこれを守っている。
それは、キャラクターを指す場合は敬称を付けない、またはフルネームで呼ぶなどして違いをつける、というルールである。
でないと色々面倒臭いのだ。
過去「朝比奈さんって可愛い自分を演じてるのかもなぁ」とキャラクターの方の朝比奈みくるを指して言ったつもりが誤解されて怒られた事があったりしたからな。
ちなみに、作中キャラクターのキョンが敬称を付けない他キャラクター(つまり長門や古泉)を指す場合は、フルネーム呼びに併せて『宇宙人』『超能力者(またはイエスマン)』と呼ぶ事も多い。
長門は偶に声優名+外の人(例えば小野Dの外の人=古泉一樹)のような呼び方をする事もある。
ようは俺たちか、キャラクターか、が明確に判ればいいのだ。
まぁそんな訳で。
俺は再び彼女らの背中に視線を向けた。
聞き間違えでなければ俺と古泉の名前が、キャラクターを指す呼び方ではなかった筈だ。
「杉田。この写真のデータを貰ってもいい?」
許可を。とくるり振り向いた長門の後ろでは、パソコンのモニターがこれまた懐かしい写真を表示していた。
それぞれの学校の制服を着ている、高校生の俺と古泉の写真、である。
高校生になってそろそろ一ヶ月が経とうとしている、週末はゴールデンウィークの始まりだというある日の事である。
親父の友人が経営している通信販売の会社でバイトをしている俺は、繁忙期であるゴールデンウィーク中のシフトや作業の流れなどを社員の人たちと打ち合わせていた。
たかがアルバイトの高校生なのにこんな打ち合わせにも顔を出せるのは、中学生の頃からこの仕事を何かと手伝っていて、正式にバイト扱いになった今月からは任されている業務まであるからだ。
「キョンくんは休み取りたい日はあるかい?」
小学生の頃に付いて広まってしまったあだ名は、ここでも使われてしまっている。
社長に『うちの息子のキョンだ』などと訳の分からない紹介をした親父が悪い。
まぁもちろん本名は知って貰えてはいるが、キョンというあだ名が非常に印象深かったのだろう、本名で呼ばれた事は一度もなかった。
「いや、折角ですし毎日出ますよ。休み明けたらまた出られなくなる日がありますし」
高校生活最初の連休だ。遊びたい気持ちもあったが、ここで頑張っておけばかなり懐が暖かくなる。
それに慣れた職場、慣れた仲間。
小さい会社だし綺麗なオフィスではなかったが、割と居心地が良い場所であったのだ。
「そうか、助かるよ。じゃあ、今日もよろしく」
人の良さそうな笑顔の社長は引き続き他の社員と打ち合わせを続け、俺は持ち場である倉庫へと入り、いつも通りの作業を開始した。
そして休憩時間。
倉庫から出て事務オフィスを突き抜けた所に休憩室と喫煙所があり、自販機はないがドリップコーヒーとお茶と冷水が飲み放題なので、休憩時間はそこでコーヒーを飲みながらケータイを弄るのがいつもの過ごし方だ。
この日もいつも通り事務オフィスを抜けようとして、ふと一人の少年に目が止まった。
少年と言っても同じ歳…か少し上かもしれんくらいか。
茶髪で長身でやけに整った綺麗な顔をしていて、少し緊張したような顔で小さく笑っている。
TVで見た事はないが芸能人とかモデルとかなのかも知れない。
ついにこの会社もCMを打ったりするようになったんだろうか。
出演アイドルが挨拶に来るとは、まだ売り出し中でデビューしたてとかなのだろうかね。
そんな事を考えながら休憩室でのしばしの休憩後、持ち場に戻ろうとしたところを先輩社員に呼び止められた。
「あー、キョンくん、紹介するよ。明日から入って貰う事になった古泉くん。色々と教えてあげて」
コイズミくん、と呼ばれたさっきのアイドルは、人当たりの良さそうな笑顔で俺に頭を下げていた。
CM出演のアイドルではなかったらしい。
して翌日。
学校帰りの直でバイト入りした俺は、ブレザーの上着だけ脱いで作業着であるエプロンを付けて事務所に入った。
格好良いものではないが、色々汚れるしポケットが便利なのだ。
俺の後を追って来たかのように、昨日のコイズミくんが笑顔で事務所入りする。
ぎこちない挨拶が初々しいねぇ、年上かもしれんが。
どうぞよろしくお願いしますと俺にも頭を下げる黒い詰襟姿の襟元に『T』の文字が刻まれたピンバッジが見て取れた。
1年生。タメか。
新高校一年生にしては老けて…いや、大人っぽいと言うべきなのか?
勿論そんな感想は頭の中だけにして、こちらこそよろしく、とだけ言ってと笑ってやると、コイズミくんは安心したように歳相応の笑顔になった。
かくして、初めての後輩誕生に少なからず緊張していた俺だったのだが、対するコイズミくんの緊張っぷりはそりゃあもうハンパなかった。俺なんか及ばない程に。
聞けばこれが初めてのバイトで、今日は人生初の労働なのだそうだ。
昨日一通り研修ビデオを見て、軽く指導は受けたそうだが、担当業務の内容を教えるその前に、電話の取り方(しかも外線ではなく内線だ)どころか、こんな事も教えるの?俺、お前の母ちゃんじゃないんだけど?と突っ込みたくなるような、いちいち敢えて挙げるのもどうかと思うような本当に基本的な事から教えなくてはいけなかった。
半分は緊張のあまり出来る事すら出来なくなっているのだと解釈してやってもいいが、残り半分は素で判ってないと思わざるを得ない。
コイズミくんに出来るのは笑顔と良いお返事だけと言っても過言ではないだろう。
まぁそれすらも出来ない若者が居るという話も聞くしというか俺も若者なのだが、そんなヤツよりは随分とマシだ。とりあえず礼儀正しくて素直だしな。
しかししかし、不安なのか熱心なのか両方なのか変な趣味があるのか全部なのか、俺の作業一つ一つを間近で見ようとするので非常に顔が近い。
昨日今日知り合った男の睫の長さや肌のきめ細かさや呼吸のリズムを何故知らなくてはならないのか。
そう言う度にすみません、と眉を下げて身体を離すが、また気が付くと近くに顔がある。
これが可憐な美少女ならば嬉しいと思う気持ちも当然あるが、男じゃ単に気持ち悪いだけだ。
そう、例えば朝比奈先輩のような可憐な…いや、それはそれで落ち着かないか、なんか怖くて。
初めて出来た後輩に喜ばしいような鬱陶しいような複雑な気持ちを抱えつつ、褒めたり叱ったり呆れたり慰めたりと前半は非常に濃い時間を過ごさせていただいた。
キリの良いところで時計を見つつ作業を中断し、休憩室を案内しがてら休憩中。前半やってみてどうだったと先輩面して聞いてみると「キョンさんが丁寧に教えて下さったので、何とか」とコイズミくんは薄く笑った。
ちょっと待て、キョンさんって…。
こいつも俺をあだ名で呼ぶのかと思いつつ、まぁ社内の殆どの人がそう呼ぶんだから仕方ないかとスルーしてコーヒーを飲んでいると
「キョンさんって本名なのですよね?外国の方とか?」
などと、そんな訳あるまいと全身で総ツッコミしたくなるような事を聞いてきた。
もちろん力の限り全身で総ツッコミさせていただいた。
コイズミくんはガトリング豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして驚き、休憩後の後半は『キョンさん』から『杉田さん』に呼び方が変わっていた。
真面目なヤツめ。
そんな日を何日か繰り返し、さぁ明日はゴールデンウィーク初日だとなった頃にはコイズミくんはかなりの成長を遂げていた。
一人で任せられる程では決してないが、ここまで成長してくれると育てた方としても正直かなり嬉しい。
なるほど、折角教育した新人がさっさと転職したら、そりゃあやり切れないな。大企業の新人教育なんかはそれなりに金と時間をかけているだろうから尚更だ。
明日からの多忙に備えつつ日々の日常業務をこなしていく。
コイズミくんに任せられる作業はあまりないが、それでもあれ取ってくれ、これ仕舞っておいてくれといった雑務サポートを頼める人間が居るというのはなんと作業の捗る事か。
コイズミくんよ、是非とも使える男になって俺に楽をさせてくれ。
そんな終業時間間際。
ある意味皆が通るよくあるミスをコイズミくんがやらかしたのだ。
「すみません!ど、どうしよう…!」
こんなミスは俺も昔はよくやったし、やったからこそ気を付けられるようになると言うか、別にちょっとやり直せばいいだけの話なので別に本当になんでもないミスなのだが、コイズミくんにしてみれば大変な事をしでかしてしまったと思っているようで、まぁ、確かに最初はビビるよな。当時は俺もビビったさ。
顔色まで悪くして必死に頭を下げて、どうしたらいいですかと慌てるコイズミくんに、まぁ別に大した事でもあるまいと
「コイズミくん落ち着け、気にすんな。次から気をつければいいだけだ」
とだけ言ってさくっと修正してやった。
判っているヤツからすれば本当に別に大したことじゃあないんだ。
うまい例がなくて説明が難しいんだが、そうだな。宅配便の送り状を書き損じて、送り状一枚無駄にしたくらいのミス、と思って貰えれば、まぁその程度の事だと思う。
そんな事があってからというもの、コイズミくんはそれはもう非常に俺に懐いた。
懐いたという表現は我ながら本当に的確だ。
元々スキンシップ過多気味なコイズミくんは話せば顔が近い、並んで歩けば肩が当たるほどに近い。
あぁもう近い近い。そっち系の人ですか、このやろうと何度思った事か。
そういやこの件から暫く経ってから当時の事を古泉が話した事があったのだが、その時の俺は神かと思える程に頼もしく格好良かったそうだ。そうかい、ありがとよ。
さて。
洗礼とも言えるミスを越え、だいぶ仕事も覚え。
ガチガチの新人からデカい図体をした子犬のような弟兼後輩になったコイズミくんと、俺はどんどん親しくなっていった。
冒頭の写真はこの頃に撮ったものだと思う。
元々歳の近い社員やバイトが居なかったせいもあり、お互いにゲームが好きだという事も判り。
夏休みの予定を考える頃には、休日に約束してお互いの家に遊びに行くような仲にまでなったのだ。
学校が違うので放課後に遊ぶような事は殆どなかったが、バイトが終われば軽く遊んでから帰宅する。
そんなパターンが日常化した。
親しくなっても敬語のままなのが気になって何度かタメ語でいいと言った事があるのだが、
「ええと…この口調では駄目でしょうか?」
と申し訳なさそうにお伺いを立てるので、気にしない事にした。
似合ってるしな。
それに、コイズミという姓で敬語というのは、あるキャラクターを彷彿させるのでちょっとおもしろくもあったのだ。