木の香りがいまだ漂う真新しい城内。徳川家康の懐刀と名高い老中本多正純と、同じく徳川家康の側近安藤直次は、駿府城の一室で政務を取っていた。
ちょうど一年前、駿府城は完成間近で一度消失している。それからまた建造しなおしたのだが、大名連中の金蔵を空に出来た事を差し引いても、新しい城内は気持ちがいいものだ。
「なぁ、上州。楊さんがこないだ戻ってきたって知ってるか?」
右筆が集めてきた書類に目を通しながら、直次が言った。
楊さん、とはオランダ人の貿易家、耶楊子(ヤン・ヨーステン)の事だ。彼は、徳川家康から朱印船貿易を任され、東南の海を船で走り回っていた。
やはり書状に目を通しながら、正純はうなづいた。
「ああ、知っている。先月の末に堺についたとか。次は呂宋(ルソン)に船を出すというから、そろそろこちらにくるのではないかな」
「楽しみだねぇ。あの人は中々面白いからな」
直次は喉を鳴らして笑った。対して、正純は眉間に浅い皺を作った。
「……癖が、ありすぎるだろう」
「それだけ経験豊富ということさ。何せ、俺達の見たことも聞いたことも無い国から来て、やっぱり俺達が知らん国を飛び回っているんだからな」
「……」
それとこれとは違うだろう、と正純は思う。身体も声も大きなその異国人は、人を食ったようで、かつ無邪気な振る舞いをしでかしてくれるのだ。
傍で見ている分には構わない。問題は、なぜかそれに巻き込まれるのは正純であるということだ。
同じく異国人である三浦按人(ウィリアム・アダムズ)などは、礼儀正しくて話しやすいのだが。
ふいに、どかどかと乱暴な足音がこちらに向かってきた。いやな予感がして、正純は思わず居室の入口に体を向けた。
「ズミーサン、ズミーサン、これにハンコください、ハンコ」
朱印状を振り回しながら、大柄な男が駿府の執政達の部屋に乱入してきた。
異相、である。くすんだ金色の髪は鬼の頭のように縮れているし、鼻は富士山のようにとんがって高い。おまけに、目は澄んだ若草色であった。
ヤン・ヨーステンが入ってきた途端、側付きの右筆は書類を取りに書庫に走り、給仕をしていた茶坊主は、湯を汲みに部屋を退出してしまった。
「楊さんの話をすると楊さんが来る、か」
感慨深げに、直次が呟いている。正純は、その横っ面を叩きたいという欲望と闘わねばならなかった。
ヨーステンは小人の国に迷い込んだ巨人のように部屋を見渡し、無遠慮に正純の文机の前に座った。最近は、椅子が無い事にも馴れたらしい。ただ、その足には見慣れぬ地下足袋のようなものを履いたままであるが。
「みなさん、いそがしいのですネ。わたしもいそがしい。ズミーサンもいそがしいのですか?」
「楊さん、俺も忙しいぞ」
「アントンさん、いそがしいのめずらしいです。ズミーサンはいつもいそがしそうです」
おいおい、と身を乗り出そうとする直次を制し、正純はひどく不機嫌な声で異国人の名を呼んだ。
「……楊子(ようす)殿」
「はい?」
「そう呼ぶのはやめていただきたいと以前にも申したはずですが?それに、朱印状とはしかるべき手順を踏まえ発給されるもの。まずは三浦殿を通されよ。このようなふるまい、感心しませぬぞ」
「はい、わかりました。ですから、ズミーサン、ハンコ、ください」
笑顔で、楊子は朱印状を突き出した。
全く分かっていない。潮と日に焼けた朝黒い肌とは対照的な、口元からこぼれる白い歯に、正純はひどくうんざりした。
「耶楊子殿、私の名前は本多上野介正純です。最後の『ずみ』だけを呼ぶのはおやめくだされ。それに、わが国では名をみだりに呼ぶようなことはしませぬ。苗字の本多、もしくは上野とでもお呼びを」
「……ふぉ、フォンダン……クォ・ヅーケ……?」
国籍不明の名前に、直次が爆発するように笑い出した。
「では、上州!上州とだけお呼びを!」
「ああ、はい!ジョシュアーさん!」
正純は文机の端に八つ当たりをし、直次は畳の上に沈没した。
「ジョシュアーさん?なにやら、わたしまちがえましたか?」
なにやらもかにやらも間違えているのだが、もはや訂正することも面倒くさくなり、正純は畳の上で笑い転げている直次を蹴り飛ばして決着とした。
それからしばらく、駿府城にはアントン、ジョシュアーを皮切りに、ナリーゼだのイワンだのと呼ばれる人物が増えた。
正純がアダムズに泣きつき、彼がヨーステンを叱るまで、駿府城は異国人の詰所のような名前であふれることになったが、それはまた、別の話。