その邂逅は、衝撃だった。
-邂逅-
御子川内櫻子は、流魂街の中でも治安の良い場所に送られた魂の一つだった。
水にも食べ物にも不自由する事なく、幼い時分に死した彼女は、死後の世界ですくすくと育って居た。
櫻子には微弱ながら霊圧があり、成長と共にその力は徐々に強まって行った。それはまるで何かの時間に間に合わせようとするが如く、波を付けて少しずつ高まっていく。
成長に伴い、共に暮らしていた血の繋がらない、しかし繋がりは血よりも深い二人の家族には霊術院入りを薦められたが、櫻子は此れを頑なに拒んでいた。
「自分は、あねさま達と居たいのであります」
「…櫻子…、」
家族の記憶も儘ならない時分に流魂街に来た櫻子には、後にも先にも唯一の家族だった二人。
身に馴染んだ場所からも、もう一時も離れたくは無かった。
霊術院入りを薦める家族と、それを拒んだ櫻子が家を飛び出した、そんなとある日の事。
空には雲が垂れ籠め、曇天と言うに相応しい空模様であった。
「ぐす、…ぅ…」
何故。
何故、離れたくないと思う程に離れろと言わんばかりに天は動くのか。
家族にも伝わらない孤独のもどかしさに胸を掻きむしられる様な感覚に陥り、櫻子は胸元を押さえた。
感情に任せて泣き喚いた名残の涙が頬を伝う。
此れではいけない、と、漸く冷静さを取り戻した櫻子は、幼さ故の短めの着物の裾を軽く払いながら胸を押さえていた手で涙を拭った。
その涙の玉が風に吹かれた刹那。
「──…良ぉ爆ぜそうじゃ」
ぬらりとした声音が櫻子の鼓膜を撫でた。
ぞくり、
声の正体は背後に居る。背筋を伝い落ちる嫌な汗を覚え、振り向くより先に本能的に駆け出した。
一瞬後、櫻子の立っていた場所に爆発が起きる。
小規模の爆発ではあったものの、土埃を含む激しい爆煙に櫻子は吹き飛ばされた。
「勘も良え…上等、上等」
転がって向かい合った声の主は、白い蜘蛛のような体に骸骨の仮面を帯びた化け物だった。
後の四肢で体を支え、上体を起こし四本の前肢を蠢かせるそれは、本来流魂街の、特に治安の良い場所になどに現れる筈のないものだ。
「…ほ、虚…!?」
魂を捕食し己の孔を塞がんとするモノ。
知識のみで初めて目にした其れに櫻子は硬直した。四肢の端まで、まるで己の物で無くなったかの如くに動けない。
「ほれ、逃げんのか?何処を飛ばそうかのう、脚か、腹か、」
「…ッ!」
笑みを含んだその声が、もう一度櫻子の鼓膜を撫でた頃には、彼女は弾かれるようにして駆け出していた。
兎に角人気の無い所に逃げなくては。
そうしなければ、被害の増大は目に見えていた。
───
「はぁっ、は、は…ッ!」
「くふ、くふ…爆ぜるぞ、そら、右の脹ら脛じゃ」
ぱんっ!
軽い音が人気の無い荒れ地に響き、前を駆けていた櫻子は声もなく地面に倒れ伏した。右の脹ら脛には削り取ったかの如く深々と傷が刻まれている。
どくどく、と何時もの数倍の早さかと錯覚するほど早駆ける心臓。
怪我は体のあちこちに至って火傷を負っている他、腕にも足と同じく抉られた様な傷を負っていた。
体力的にも精神的にももう逃げられない。
くふふ、と愉悦に満ちた笑みが背後で聞こえる。
「さて、さてさて」
止めを勿体振る虚を後目に、何とか逃れようと立ち上がる少女。
「飽いたの。」
既に虫の息と言って良い程の櫻子を相手に無慈悲な言葉を紡ぐ虚。
つ、と鋏の様な前肢を櫻子の腹へと突き付ける。
「…見よれ、爆ぜるはうぬが腹じゃ」
ばぁ、んっ…!
一際重い音と共に櫻子の脇腹が派手に、裂けた。
どっ、と乾いた音をたてて地面に倒れ込む小さな体。
一拍遅れて傷口から血が溢れ出す。
止まることを知らない其れを見て虚の哄笑が荒れ地に響いた。
「ち、一足遅かったかね。怪我人が出てるとは」
其処にざくりと砂地を踏み締め現れた存在。
棒付き飴をくわえ、白衣を翻したその姿は地面に倒れ伏す櫻子よりも年下に見える。
「そこのお前さん、もうちょい踏ん張りな。私が其れを標本にするまでさ」
無茶苦茶な台詞を無造作に言い放つ少女こそ、十二番隊隊長兼技術開発局局長、雅峰粒歩その人だった。
「さて、と…地軸固定、磁場確認!重力制御装置始動!」
「なん、…っ!?」
虚が何事かと察するよりも先に重々しい起動音が辺りに響き渡り、虚の立っている場所だけが圧力が掛かったように歪む。
更に間髪入れずに始解していない斬魄刀を引き抜き、そのまま切りかかっていく粒歩。ふわりと軽い少女の振り下ろした刀の刃は、重力制御装置の制御下に侵入するなり重さを増し、虚の前肢を容赦無く切り落とした。
「重力制御装置停止!捕縛用──「死神風情が、嘗めた真似を…!爆ぜろ、爆ぜてしまえ!」
痛みから咆哮を上げていた虚が体勢を立て直し、無数の小さな蟲を粒歩に向かって放つ。
目には埃程度にしか映らぬそれは、一匹が人の体を抉るほどの爆発力を持っている。先ほどまでは一匹ずつ放っていたものを一気に放ったのだ、全てが爆発すればそのダメージは計り知れない。
そんな状況にも関わらず粒歩はのんびりと飴を舐めていた。
「あーぁ、サンプル収拾出来ないじゃないか」
至極残念そうに呟いた後、片手に携えていた刀を緩く一振りする。
「天地引斥、乱れし狂え…天竺牡丹」
持ち手からしゃらしゃらと溶ける様に形を変え、教鞭の様な形になる斬魄刀。
それを見た虚が残る前肢をうねらせ一笑する。
「くふ、はは!その様なモノで防ぎきれるものか!爆ぜろ死神!」
「爆ぜるのはお前の方だよ、サンプルが無くなるのは心苦しいが──いや、訂正しとこう、サンプルは腕一本で十分だ。天竺牡丹っ」「──…な、!?」
虚が息を飲んだのも仕方ない。ひゅん、と一振りした鞭の動きだけで蟲達は動きを変え、隊列を組み替えて真っ直ぐに虚目掛けて飛び込んでいくのだから。
其こそが天竺牡丹の能力。複雑な計算と引き換えに斬魄刀の有効範囲内に入った物全てのベクトルを操作出来る、能力。
どぉお…ん…!
最期の一声さえ残すこと無く消えた虚に瞳を細め、満足げに笑みを漏らす粒歩。その顔はまるで造作無いことと言わんばかりの表情だった。
此れこそが、まだあどけなさを残す粒歩の、隊長としての実力だった。
「やっぱり予想通り時限式だったか、と…そんなこと言ってる場合じゃないな。生きてるかーい?」
粒歩は斬魄刀を刀の形状に戻し、鞘に納めた後にふと思い出した様に倒れ伏した少女の元へ向かう。
言葉での返事は無かったものの僅かに瞼が震えたのを見て取った粒歩は遅れて追い付いたサンプル摂取班へと声を掛ける。
「…○○壱番と○四七番の棚から臓器のスペア持ってきな、出来る限り急いで」
粒歩の指示に従ってサンプル摂取の為に手にしていた道具を全てその場へ置いてきびきびと動く局員達からは普段とは違う粒歩の顔が見え隠れする。
櫻子の元まで歩み寄った粒歩は大怪我を負いながらも未だ微かな呼吸を繰り返す櫻子を目にして瞳を細めた。
「根性あるね、お前さん。嗚呼、霊力のお陰かな?」
「あ、なた、は…」
手持ちの補肉剤を手足の傷に打ちながら意識を繋ぐために言葉を掛ける。
こぷ、と唇から血を溢れさせながらも視界に捉えた己よりも幾らか幼げに見える少女の姿に櫻子は瞳を丸めた。
櫻子の驚きも止まぬ内に、折り返した局員達が携えてきた指示通りの臓器を補肉剤を使って繋ぎながら粒歩は幾度か声を掛ける。
「もう大丈夫、」
「心配要らない」
「私に任せな」
柔らかく言葉を紡ぎ、粒歩によってみるみる内に修復されていく体に櫻子の呼吸も落ち着き始める。
手早くすべての処置を済ませ、血濡れた手にも構わず柔らかく髪を撫でる粒歩の掌に櫻子は言い知れない安堵を覚えた。後々の櫻子は、柔らかな茶色の髪と赤いフレームの眼鏡が焼き付いたのもこの時だと言う。
「これで良い、少しじっとしてれば治る」
足りない血を補う為の血液製剤を櫻子の口に押し込みながら粒歩は呟く様に治療の完了を知らせた。
「虚の残骸は回収したかい?」
「はい、サンプルになりそうな物は隊長が切り落とした前肢のみですが」
「それだけありゃ充分だ、退くよ」
「ま、待って、くださ…」
局員と幾つかの会話を交わし、櫻子に背を向ける粒歩に掛けられたか細い声。
ゆるりと振り返った少女の眼鏡に、緩慢に上身を起こした少女の姿が映り込んだ。
「あなた、は…?」
「…護廷十三隊、十二番隊長、雅峰粒歩。ま、ただのしがない研究員だね」
質問を許すのは其処までだと言わんばかりにそれだけを告げるなり櫻子に背を向け、既に標本瓶の中へ詰められた虚の前肢を小脇に抱え歩き出す。
その堂々たる小さな背中を見送りながら櫻子はある決意を固めていた。
衝撃に満ちた出会いに始まった二人。
十二番隊に新しい副隊長として御子川内櫻子が選ばれ、狂喜する櫻子を見てあらゆる死神が隊の行く末を憂えたのはまだまだずっと後の話。
fin.