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タイトルなし

タワレコインスト

タイトルなし

J)アンデルセンの創作メルヘンにみられる現実社会の反映について。

ハンス・クリスティアン・アンデルセンはデンマーク、オーデンセに生まれた作家である。父親は靴職人、母親は洗濯婦であり決して裕福ではないことがこれだけでも想像できる。と、同時に教育も十分でないことも伺いしれると思う。なぜ、これを冒頭に入れたかった言うとこの知識の薄さが作家としても、人間としても、アンデルセンにとってとても大きく影をおとす出来事だったと私は考えるからだ。
 アンデルセンは女性を愛せない、同性愛者だという説がある。その根底には、初めて好きになった女性にふられたことが原因であるとされる説がある。『人魚姫』の作品にもこれはみられて、エズヴァード・コリーンに宛てた書簡が決定打だと言えると私は考えている。書簡を抜粋すると「あなたこそ同年代のなかでただひとり、近しく思える友である。大事な頼みがある。あなたはわたしを笑うだろうか。だが、いつか、本当に私を幸せにしたいと望むなら、あなたの敬意の証拠がほしい―わたしがそれにふさわしいときに。あぁ!どうか怒らないで。どうかDuと呼んでほしいのだ。(以降中略)」この箇所は決して男性が友人男性に送って万人に受け入れられる文章ではないというのが私の考えでる。と、言うのも私自身が女であっていまいちよく分からなかったので5人の男の学友にこの文章をみてもらった。そのうち4人が身の危険を感じると返答してくれたことによってこの考えに至った。しかし、この文章から伺い知れるのはアンデルセンのそん菜性格のみに留まらない。先に挙げたとおりアンデルセンは初等教育が不十分であり大人になってからも十分な教養とは言えない
状況にあった。よって差別され、人からははじかれ、悲しんでいたのではないだろうか?よって愛情と友情とか混同してしまっているのではないだろうか?と、考える。
 そのことを踏まえて考えるに『みにくいあひるの子』とはアンデルセン自身の事を投影していると考えるのが妥当であろう。作中にある「君ってなんてみっともないんだ。」は多分彼自身がそれに似た言葉を幾度となく投げつけられたのだろう。なんどもこのワードが登場する所以は苦しくても吐き出せなかった、しかし忘れられない辛い出来事だったからではないか。「ぼくたちの家族の誰かと結婚さえしなければね。」と、いう言葉はもしかしたら「家族内での結婚、イコールタブーな結婚、イコール同性愛」ととらえることもでき、彼は生まれだけではなく性癖までも否定され、ひどく苦しんでいたのではないだろうか。みにくいあひるの子はこの物語の最後には白鳥になる。それはもしかしたら、自分は現実世界で現状況から脱却できないからこそ、物語の中で白鳥に願いをかけることで自分の癒やしとしたのではないだろうか。そう読むと、アンデルセンの作品とは現実世界では果たされない欲求を果たすための道具のようなものであったように感じられてならない。
(2407字)

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I)『赤ずきん』のバリエーションに反映された社会事情を具体的な箇所を指摘しつつ述べる。

『赤ずきん』の話は元々はドイツにはなく、フランス人の民衆の間で語り継がれたものを集めポール・ドラリュが再構成したものである。(これがオリジナルである。)このオリジナルで最も着目する点は、少女がずきんをかぶっていないことにある。さらに、少女はパンとワインではなくパンとミルクをもっておばあさんの家にいく。道を聞くシーンでは縫い針と留め針と書いてあるため、民衆の間で語り継がれたという言葉に説得力がある。ブズーとのやりとりは若干生々しさがあるのだが、私が幼い頃から読んで親しみのある物に近く、少女が無事に生き残ることで話が収束する。しかし、シャルル・ペロー版ではまた違った姿をみせる。 オリジナルとは打って変わりこちらでは、少女は赤いずきんをかぶっておりその所以までもが書いてある。ペローが生きた時代、都市部ではもうずきんをかぶるなんて行為は流行遅れでナンセンスであったがあえてかぶせた。その理由としては、田舎の話であるのだから少しくらい流行遅れの物があった方が大衆に受け入れられやすいと考えたからだ。 さらにペロー版では道をこっちの道、あっちの道と表示したり、『取手をお引き
』などと分かりきってる表現をしたりとオリジナルなるとの違いを目の当たりにすることが出来る。さらなる大きな違いは赤ずきんが助からないことにある。 この助からないことは同時にこの物語に教訓を持たせる役割をしている。このように、ペロー版から以降は社会事情、特に教育にとっかしたストーリー構成なっていく。
 ルートヴィヒ・ティーク版は現代版のもとになっていて、ほとんどが変わらないがラストに著しい違いがみられる。狩人がしかし罰を逃れることは出来ないと発言した箇所がありこれが全てである。と言うことで、最終的に何が言いたかったかと言うと、赤ずきんの話は教育的正義を示したかった物語でありそのような社会事情下にあったことを示している。そのことは、これ以降に書かれたグリム兄弟の作中にみられる「おばあさんの部屋に入ったら、おはようございます、って言うのを忘れちゃいけませんよ。ごあいさつもしないうちから、そこら中をきょろきょろ見回したりしないようにね」と書いてあることからもマナーなどと言った教育的意図がみえかくれする。
(1966字)



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H)いわゆる「アンチ・メルヘン」の特徴について、取り上げた作品を例に解説する。

勘違いされやすいがアンチメルヘンとはメルヘン否定をさす言葉ではない。
アンドレ・ヨレス曰わく発端・過程が世間一般的に正しいと、道徳的であると、言われるように調整されていることをさす。もう少し簡単に言うなれば、「こうあるべきだ!」と、言う希望や理想を書き連ねたものが「メルヘン」であり、それ以外は「アンチメルヘン」であるのだ。
 ウラジーミル・プロップは31の機能が7人の登場人物に振り分けられていると書いている。その内訳は敵対者、贈与者、助力者、王女とその父、派遣者、主人公、偽物主人公である。主人公は悪い奴ではないが報われない、偽物主人公は兄弟・友人がなることがほとんどであり主人公と同じ事をさせられることが多く、主人公との比較対象である。これを念頭に置きながら「ホレおばさん」を読んでみると、綺麗で働き者の娘が主人公、醜くて怠け者が偽物主人公である。異界での試練を道徳的にこなし、お礼まで貰った主人公に相対し偽物主人公は試練に立ち向かおうとはせず、その代償として生涯消えない報いの証までつけられてしまう。 このことから偽物主人公の役割とは倫理に外れたことをして罰を受けることにあり、主人公には道徳的に生きることを要求している。
 このように、ごく当たり前の事をナチュラルに、かつ理想的にこなすことを「メルヘン」といい、これに属さない物を「アンチメルヘン」と言うのである。
(1255字)

◆きちじょーじ うぃず まゆぽん

今日は池袋でインスト終わってだっしゅで渋谷!
まぁはせぽんの補講遅刻だったがな!笑



そのあと、井の頭のってまゆぽんと吉祥寺いせや
年始めで呑みますぞ


因みに道玄坂で中文のせんせいたちも新年会だったらしいネ!
授業終わりにはせぽんとみやさもだっしゅしてた

またきたいなー♪(o・ω・)ノ
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