2018-5-22 20:58
すみません、前の記事の続きです。
そもそもなんだけど、「楽しい」を知らない人生を、人は生きたいと思うだろうか?
(こっちを先に書けばよかった)
「この世は地獄」と感じる人は、一体何のために生きているのだろう、と思った。
でも少し前の自分は100%これ。
「この世は地獄、クソしかない」って本気で思ってた。
じゃあ、なんで生きてたんだろう…。
一番しっくりするのは
「生きるのは恥で苦痛だけど、それ以上に死ぬことは迷惑かけるし情けない」
いやもうホント、何のために生きてたんだ…。
学生時代は「そのクソみたいな世界でもがむしゃらに努力すれば親の願望を満たして、自分の願望にも近づけれるかも」って0.5%の期待があって。
それが崩れたから、死のうかなって思って、自殺未遂した。
(自分=人と拡大解釈して「人は〜」というのは主語を大きくしすぎたなと、ちょっと反省してます。すみません)
今は「地獄」90%「惰性」9%「(自分のための)目標」1%で生きてる気がする。
「目標」の大半は「願望」で出来てる。
ここで未来の可能性を諦めるのは哀しい。どうかこの世に夢を見させて欲しい……という願望、懇願。
これを「期待」と言うのかな。
今でもこんなクソみたいな世界さっさと死にたいけど、それでも、何かに期待してる。
その期待がなくなったときに、人は死ぬんじゃないかと思う。
もちろん、他人のために生きてる人もいると思う。
それは普通にすごいなーと思う(小並感)
自分には、そこまで重要な人間はいない。
こういう自分第一なところも幼い部分の一つだと思う。
ここではそういう「他者のために生きれる人間」は置いといて(自分がその感情を知らないので)
「この世は100%地獄」と考えてる人は何のために生きているのか、を考えてみた。
惰性…もあるだろうなあ。
なんとなく生きてる。
生存本能とかもあるのかも。
死にたいけど死ぬのは怖いっていうのは確かに経験したことあるから、まあわかる。
それでも、何か日常で一時でも「楽しい」という感情があるから生きていけるのでは?
と思うんですよ。
毎日が苦痛しかなかったら、死にたくなる。
それでも一瞬「楽しい」という快楽があるから、その快楽で気が緩むし、次の「楽しい」のために生きてもいいかなと思う。
この世は地獄だけど、自分は「楽しい」という感情を抱ける。
上手く表現できないけど、マラソンと休憩ポイントのようなイメージです。
それでも差引「苦しさ」の方が勝てば死ぬとは思う。
「楽しい」を感じられなくなったり、楽しいと思える何かが無くなったり、期待できなくなっても死ぬ。
というか、生きる意味がわからなくなったり、生きていられなくなると思う。
アダルトチルドレンには感情を感じにくい人が多いと聞くけど、
もし完全に喜怒哀楽の「楽」と「喜」を奪ったら、その人間は生きていけるのか、気になる。
もちろん、人間を使っての実験はできないので、遠い未来でAIが発達したらシュミレーションしてくれないかなーと思います。