長瀬涼。
それが彼の名前。
初めてその名前を意識したのは、いつの頃だったろう。気がついたら目で追ってた、無意識に彼を探してた。本当にいつの間にか、私の生活の中心に涼がいるようになった。
長瀬涼。
みんなに「ナガセン」って呼ばれてる、体育のセンセ――。
チャイムの音が鳴り止むのと同時に、亜衣沙とマヤは生徒が集まるグラウンドにかけ込んだ。
「ギリギリセーフっ」
息を切らせながらマヤが言うと
「あんたら、これから走るっつーのにもう息切れしてんじゃん(笑)」
クラスメートのヤマジが笑いながら言った。
「マラソンなんて最悪だよね。一学期始まってしょっぱなからコレだもんなぁ…。」
クラスみんなの意見を、マヤが代弁した。
一学期の最初の体育授業は、どの学年もマラソンと決まっている。グラウンドを出発して、高校周辺を女子は3キロ、男子は4キロ走ることになっていた。この授業を好き好んでする生徒は、陸上部だとか、ごく一部の奇特な生徒だけだった。しかも『必ず1人7本走る』というノルマが決まっていて、サボったり欠席すると、放課後に呼び出され、何が何でも走らされる始末。逃れられないマラソンなのだ。
ため息交じりのやる気のない生徒達の前で、これまたやる気のなさそうなナガセンが、気だるそうにマラソンの説明を始めた。
「えー今日は体調悪くて走れない人とかいますかー?」
「せんせぇー…。」
さっきまでバカ笑いしていたヤマジが、急にしおらしい声を出しながら言った。
「私今日、体調悪いんで走れませぇん…。」
「(ヤマジみえみえだっつーの)」
マヤが私の耳元でささやく。
ヤマジもイタズラっぽくナガセンの反応をうかがっている。
すると
「はい、じゃあ山路さんは体調が良くなったら、いつでも放課後私の所へ来てください。居残りで走ってもらいます。他に体調の悪い人はー…。」
ナガセンは淡々と応えるだけだった。
「ヤマジ悪ふざけしすぎぃ(笑)」
マヤが肘をヤマジに押し付けた。
ナガセンの素っ気ない反応が気に入らなかったヤマジは、明らかに不機嫌そうな口ぶりで
「何あれ。あいつノリ悪すぎでしょ。」
そう吐き捨てると、
「はぁいせんせぇー。マヤと亜衣沙も具合悪いそうでぇーす。」
勢いよく手を上げて、無表情で言い放った。
「(ちょっとヤマジっ!!)」
亜衣沙は慌ててヤマジの手を下ろしたが、時すでに遅し
「福原さんと森さん本当ですかぁ?」
ナガセンは無表情のまま淡々と聞いてきた。
「違います!」
亜衣沙がそう言うよりも先に、
「具合悪いでぇーす。亜衣沙は生理だしっ♪」
マヤが私を制して、ヤマジに悪乗りしだした。
「(ちょっと!やめてよなにいってんのよマヤ!)」
亜衣沙は自分の顔が火を噴くように赤くなっていくのが分かった。
恥ずかしさで体がどんどん縮こまって身動きが取れない。
新学期早々なんでこんな目に…。
けれど泣きそうな亜衣沙などお構いなしに
「じゃあ、山路さんと福原さんと森さんはここで他の人のタイムを計って記録してあげてください。」
ナガセンは相変わらず表情一つ変えずに言うのだった。
みんなが一斉にスタートをし校庭からいなくなると、ナガセンはその後を自転車で追いかけていった。
グラウンドに残された3人は、暇を持て余し桜の木下でぼんやりとみんなの帰りを待った。
「しっかしさぁ、ナガセンってホントノリ悪いし愛想ないし、つまんない先生だよねぇ。」
ヤマジが、グラウンドにわけのわからない絵を描きながら言った。
その横では、相合傘に自分と嵐先輩の名前を書きながらマヤが、
「ホント。うちらどう考えても普通にサボりじゃん?なのに何あの対応。全然やる気ないよねぇ。」
そう続けた。
ナガセンの授業は今日が初日だというのに、次から次へと2人は不満を漏らした。
でも、正直言って亜衣沙はそんなことはどうでも良かった。みんなの前で変なことを言われて、そっちの方がよっぽど重要だった。
多分クラスのみんなも先生もマヤの悪ふざけだとは分かっていると思うけど、それでも恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
「もーやだ…。」
ため息みたいにその言葉は自然に出た。
「どした亜衣沙…?」
マヤがうつむく亜衣沙の顔を覗き込んだが、目をそらした。
「なに亜衣沙、さっきの怒ってんの?もぉー冗談じゃん。」
ヤマジがのん気にそう言うのを聞いて、亜衣沙はもう我慢がならなかった。
すっくと立ち上がると、1人でスタスタと歩き出した。
「えっ、ちょっと亜衣沙どこ行くの?」
マヤが追いかけてきたけど
「ちょっと気分悪いから保健室行く。1人にして?」
力なくそう言い、マヤを遠ざけた。
「もーマジそんな怒んなってぇー。」
ヤマジの声を背中に聞きながら
「生理だから気が立ってんだよ!」
振り向きもせずそう言い放って、亜衣沙は保健室へと向かった。
それ以上、ヤマジもマヤも何も言わず、亜衣沙を黙って見送った。
マヤは、2人でいる時はすごくいい子で大好きだったけど、ヤマジと一緒になると悪ふざけが過ぎる所があって、亜衣沙は少し嫌だった。
ヤマジはヤマジで明るくて楽しくていい子だったけど、少し気分屋で、人を振り回すところが亜衣沙は苦手だった。
「私も、そうとう自分勝手か…。」
亜衣沙はポツリと呟いた。
勝手に保健室行っちゃって、大丈夫かな…。ナガセンだから、大丈夫か。ホントあの人、生徒に興味とかなさそうだよなぁ。
私がいないの、気づくかな…。
ふと、そう思うと。お昼に桜の下で会ったナガセンの事が頭をよぎった。
軽く触れられた頭に、ナガセンの手の感触がよみがえってくる。
体育での無表情に淡々と授業をこなすナガセンと、
触れられた手の感触に、なんだか温度差を感じた。
あの頃はまだ、
先生は、先生って生きものだと思っていたよ――…。