今しがたコーヒーをいれました
お湯を注いでスプーンでかき混ぜたら
細かな泡がクルクル渦巻いていて
あ、銀河… と、思ってしまいました。
人の空想は偉大だ。
金星はたしかガス星なんだよな
イメージとしては砂嵐のように黄茶けたガスの気流がたちこめているそのなかを30メートルはあろうかという巨大なクラゲ状生物が登場してた、あれはアーサー・C・クラークの著書だった。あと、木城ゆきとのは手元にあるからここが好きだ、
今にも
落ちてきそうな
冥王星の月 カロンの下
メタンの雪がふる
マイナス230度の世界に
私たちは二人だけで残された
もう完全に起きよ、カーテン開けなくちゃな、大きく伸びをすると
気持ちがいい、さすがに最近は春の気配がしますね。
と、黒木渚の歌詞にあるのは
人には「らしさ」がある。
それは人生の最期、身を焼かれたあとに残る骨のように、
たとえ焼かれても消えないものがあるだろう。
小難しい知識のみではなく、普段の「気まぐれな思いつき」みたいなものこそが
人を人たらしめてるんだと、私はそうとらえたよ。
骨が身体を立たせているように…
そうゆう歌だから
あんなハッツラツに歌えんだなぁ
黒木渚「骨」
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あと最近ドラえもんの最終話が聞いた話が正しいのか気になって調べたら
作者 藤子・F・不二雄 氏のインタビュー記事にこうあった
「まんがをかく」という作業は、情報やアイディアをいろいろと取り入れ、そしてはき出すということのくりかえしといってよいでしょう。つまり、この世の中に、純粋の創作というものはあり得ないのです。
けっきょく、まんがをかくということは、一言でいえば「再生産」ということになります。
かつてあった文化遺産の再生産を、まんがという形でおこなっているのが「まんが家」なのです。どんどん取りこんで、どんどんはき出していくという、視野を広く持ち、柔軟な考え方をしなければなりません。
(「藤子・F・不二雄のまんが技法」小学館文庫197ページ)
さいごの四行のように、人を分けてるのはそこだろね、何を取りこんで何を吐き出しているか、
ここエムブロでも創作している方然り、
そうではない人もブログ書くって一種の創作じゃないかな、
その人を立たせているもの…
燃やしても残る本質然としたもの、
「生活や学問や あるいは恋において
気まぐれな思いつきが
私を立たせている」
黒木渚の「骨」はなるほろだな。
「銃夢」5巻 復讐の季節
人々に身代わりになってくれと懇願されたガリィは一本の剥き身のブレードと古き銃を手に復讐の狂戦士と化した
ザパンとの死闘の地に赴く。
正しい生き方を貫いてきたのに疫病神とののしられても…
戦いの最中右手を失い、身体が瓦礫に挟まれ絶体絶命の瞬間、躊躇う事なく体を二つに切り裂き、反撃の銃を鳴らす…この話のラストは秀逸だ、
この巻の最終話タイトル「強き者と弱き者のために」
生きる事は闘いも含まれているのだろう、
では何と?
強い相手?弱い相手か?相手はそもそも外にあるのか、
狂戦士と化す前のザパンの恋人との記憶に触れるガリィ、
純粋戦士である生き方をしてきたガリィは自分の小さい心では受け止め難い感情に煩悶する、まだ涙は流れない…
彼女が涙を流した理由は、彼女を取り巻く人達への感情、理解されていること、何より自分が理解していること。
芽吹くスイートピーの花言葉がさいごを締めくくる。
強い者になりたいと思うなら
「人より」でなく
今の自分よりという意味で
ん〜、今日も元気だ、
もう午後三時だけど。
歯、磨こ。
新装版クロ號
「飼い主はワカってくれない。」
ねこまんがっつったら
ドラえもんもねこ?あ、ねこ型ロボットだ、ひとり納得(^ ^)