気付いた時には、真っ白いベッドの上に横たわっていた。壁も天井も真っ白な部屋で、どこか薬品の匂いが漂っている此処が、病院の一室である事に気付いた。
……なんでこんな所で寝ているのだろう。
のそりと起き上がると、腹の辺りがずきんと痛み思わず顔を顰める。そこを摩り、思い出した。
そうだ。鈴峯に、俺……。
思い出された出来事は、まるで夢のようだ。けれど、此処が病院である事、そして腹の痛みがそれは夢ではないと物語っていた。
茫然としていると、部屋の引き戸がゆっくりと開かれる。
「お、起きたか」
扉の先にいたのは、相変わらず甘そうなミックスジュースを持った赤木だった。
赤木はへらりと笑いながら、「お前にはこれね」と微糖と大きく書かれた缶を渡された。
ベッドの脇にある簡易椅子に座り赤木はにやりと笑う。
「だから言っただろ」
赤木の言葉にぴくりと眉が吊り上がる。何の話だ、と思ったが赤木は一言、「刺されるって」と言った。あれはまだ、鈴峯のことを何とも思っていなかった頃だった。それを思い出すと、どくりと心臓が鳴り、きゅうと絞られるように苦しくなった。
「まあ、まさか本当に刺されるとは思ってなかったけど」
「……うるせえ」
「しかし、鈴峯があんな事するなんてねぇ」
鈴峯の名前が出て、思わずびくりと反応する。赤木をじろりと睨みつけるが、顔全体が真っ赤に染まっているのが分かる。それを見て、赤木はアハハと声を上げて笑った。
「すげえな、その反応。純愛を知っちゃったのね、芦田君ってば」
二人の関係を赤木が何処まで知っているかは分からない。ただ、勘の鋭い奴だから、最初から俺の気持ちなんて知っていたのかもしれない。
「……鈴峯はどうしたんだよ」
赤木の言葉に反論するのは肯定するのも同然だ。結局、赤木の言葉に芦田は何も答えなかった。
それよりも、今は鈴峯の方が気になる。
「ああ……鈴峯、な……」
赤木の顔が真剣な表情に切り替わり、芦田は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
*
芦田は傷が深いわけでもなかったので二週間で退院、一週間の自宅療養を取った。
三週間振りに学校へ行くとクラスメイトにやたら心配された。普段話さない奴まで近寄って来ては「心配してたんだよ」と言ってくる。心の中で嘘付け、と罵りながら「ありがとな」と笑った。
しかし、不思議な事に誰一人として鈴峯の事を口にする者はいなかった。
まるで、最初から鈴峯なんてこのクラスにはいなかったかのような雰囲気に違和感を持つ。しかし、その違和感を誰かに聞く事も出来ずにいた。
昼休みを告げるチャイムが鳴る。久しぶりの購買だな、と思っていると、名前を呼ばれた。
「芦田」
見ると、廊下に久美が立っている。一緒に昼食を取ろう、と屋上に呼び出された。
「……怪我はいいの?」
優しさや気遣い、というわけではなくただ気になったから聞いた、というように久美は尋ねる。それには「ああ」と頷くだけで返事をした。
「思った通りだったわね」
久美の言葉に首を傾げる。
「本命、ちゃんといたんじゃない」
何の話だ、と思いながらも、前に会った時にそんな話をしたな、と思い出す。
あの頃は、鈴峯を好きだなんて自覚はなかった。けれど、もしかしたらその頃から好きだったのかもしれない。
そうだとしたら、自分でさえ気づいていなかった感情を久美はその時には気づいていたということだ。女の勘って恐ろしい。
「……なあ、うちのクラスの奴らさ……あんな事があったのに、鈴峯の話を一切して来ないんだけど。……最初から鈴峯がいないクラスになってるみたいだ」
久美の言葉には答えず、話を変える。久美は眉を寄せて苦笑した。
「……皆、自分のクラスに犯罪者がいただなんて思いたくないのよ」
買ったパンを一口食べた。しかし、病院食の薄味よりよっぽど美味しいはずのそれは、味がしない気がした。
「ましてや、自分達が信頼してた子があんな事しちゃ……ね」
「……鈴峯の話、お前はどこまで知ってるんだ?」
「詳しい話は何も。ただ、クラスの子達が話すには芦田にパシられてて、それに耐え切れなくなった鈴峯君がプッツン切れた、って噂は聞いたかな」
あながち間違っていない噂話。
皆知らない。
俺と鈴峯が体の関係にあったなんて。
「でもさ、芦田は鈴峯君の事好きだったんだよね」
確信を持っている言い方に、眉を寄せる。
「正面から刺されてるのに、抵抗した跡が無かったんだって。刑事さんが言ってた」
「……跡?」
「うん。人間って本能的に危険を感じたら、相手の痕跡を残そうとするんだって。でも、それが芦田には無かった。どういう事かわかる?」
首を横に振ると久美はくすりと笑った。
「人間って、自分で死のうと首吊りしても苦しさで喉を掻きむしるんだって。それは、苦しさに抵抗してるから、それが人間の本能なの。けど、人間が殺されかけて抵抗もしないなんてのは、即死でもない限りの理由は……、
犯人と被害者は親しい間柄で、被害者は殺害される事を受け入れる為に、わざと抵抗しないみたい」
鈴峯の犯罪を受け入れる?
……ああ、そうだった。
鈴峯になら殺されてもいいと思ったのだ、俺は。
そうすれば、自分の鈴峯への気持ちも伝わり、自分が鈴峯に付けた傷もこれで流せると思っていた。
けれど、現実は鈴峯一人が犯罪者だ。
何も知らないクラスメイト達は鈴峯を犯罪者としか見ない。
俺は巻き込まれた可哀相な『被害者』。
鈴峯は『悪い奴』。
これで、今までの事が流せるって?
冗談じゃない。自分は何の罰も受けていないじゃないか。
「……ねえ、これからどうするの?」
これから……俺はどうしたいのだろう。
久美の呟きに、何も答えられなかった。
*
入院中、鈴峯の両親が見舞いに来た事があった。
父親の方は土下座をし謝っていたが、その姿に思わず苦笑した。
「俺は、鈴峯を訴えたりしませんよ。だから、一つだけお願いを聞いて欲しいんです」
その言葉に、漸く父親は頭を上げた。
「鈴峯が出て来た時、すぐに会いたいんです。……鑑別所から鈴峯が出る日、俺に迎えに行かせてもらえませんか?」
鈴峯は鑑別所へと送られていた。
芦田は「アレは事故だったから鈴峯を出してやってくれ」と頼んだんだのだが、鈴峯が「故意にやりました」と言って聞かなかったらしい。少年院にまでは行かないものの鑑別所には送られていたのだ。
鑑別所は親族以外は面会謝絶している。今すぐ会って話したいのに、会えない事が辛かった。だから、鈴峯の両親には無理を言った。無理を言ってでも、鈴峯に会いたかったのだ。
*
そして今日、鈴峯が鑑別所から出てくる。
塀に囲まれた門の外で待っていると、鈴峯が出て来た。「鈴峯」
塀のせいで俺の姿には気付かなかったのだろう。鈴峯の目は驚きで見開かれている。
「芦田、くん……?」
動けなくなっている鈴峯の元へと近寄るが、それに反して鈴峯は一歩後ろへと下がる。
それを見て、近づく事を止めた。
「……どうして、芦田君がいるの?」
鈴峯はわけがわからない、と眉を寄せる。警戒してか、また一歩下がる。
「……迎えに来た」
「迎え?」
「そうだよ、……悪いか」
「悪くはないけど……学校は?」
「休んだ」
「なんで」
「迎えに来る為」
鈴峯はやはり、わけがわからない、という顔で考えている。
「ねえ、芦田君。俺、君の事を刺したんだよ?」
「知ってる」
「……じゃあ、何で来るの。復讐でもしたいの?」
「復讐って……」
ただ、会いたくて来た。
それが伝わらないのは、酷く悲しい。けれど、自業自得だ。俺は今まで、鈴峯を奴隷のように扱ってきたのだから。
「迎えに行かせて欲しい、って鈴峯の両親に頼んだんだ」
「…………なんで?」
鈴峯は睨むように目を細める。下がった歩幅は徐々に近付き、気付けば人、一人分の距離まで鈴峯に近づいていた。
近くで見る鈴峯は少し痩せこけていて、それが悲しくなる。
「なんで、芦田君が迎えに来るの?」
会いたかったから、なんて今更言えない。言葉にすれば嘘っぽいと思った。
「……さあな」
「なんで、うちの家族にまで頼み込んで来るの」
「……さあな」
「なんで、そんなに……泣きそうな顔してるの?」
視界が潤み、ぼやける。
多分、鈴峯には俺の気持ちなんて、とっくにバレていたのだ。泣きそうな俺に鈴峯は「ねえ、教えて?」と苦笑した。
ああ、俺、格好悪いな。
唇が、震える。額には脂汗が滲み、手はぐっしょりと濡れていた。
「……俺は、今まで自分の事しか考えて来なかった。女なんてヤル為にいるし、鈴峯の事も性欲処理の道具にしか考えてなかった。けど、」
こんな酷い事、鈴峯を見ながらは言えなくて思わず俯く。
「これが好きとかそういうのか、俺には正直分かんねーけど、」
俯いた先に、鈴峯の手が見えた。華奢な手。この手が、俺を撫でた時、ずっと触れられていたいと思ったのだ。
鈴峯の手を掴み、顔を上げる。多分、今、顔真っ赤だなと思いながらも、鈴峯から目を外す事は出来ない。
「……俺はお前の事、手放すつもりはないし、お前が俺から離れる事は許さねえ」
本当は、こんな命令をしたいわけじゃない。お互いに愛し愛されたいだけなのに、こんな素直じゃない言葉しか言えない自分に腹が立つ。
けれど、そんな思いを見透かしてか、鈴峯は赤くなって、笑った。
「そんな事言われたら、期待しちゃうよ」
「……して、いい」
「分かってる? 俺の愛は芦田君を刺しちゃうくらい重いんだよ?」
「分かってる」
「……やっぱり、芦田君は自分勝手だね」
「知ってる。でも、もう……追い掛けて傷付けるだけの関係なんて持たないから」
だから……。言いかけた時、鈴峯は俺の頬を撫でた。男の骨張った関節が浮いているのに細い指。その指が自分を撫でている事にじんわりと気持ちが揺れる。
ああ、この指が好きだと思う。その指に自分のを重ねようとして、鈴峯に振り払われた。え、と思わず見ると苦笑しながら、鈴峯は俺を見つめる。
「……俺、芦田君に出会った事を後悔してるよ」
突然、残酷な事を言い放つ。その言葉に、足元から崩れ落ちそうになって、ぐらぐらする。声も出なくて、体が震える。
ああ、やっぱりもう鈴峯に好いては貰えないのかと、泣きそうになった。
「生まれ変わったら、絶対芦田君みたいな人好きになりたくない」
……そりゃそうだ。俺みたいな男を好きになっても、鈴峯は不幸になるだけだ。鈴峯の幸せを願うなら、離れなくてはいけない。
……けど、鈴峯から離れるなんて、出来るのだろうか。
「自分勝手で横暴で、俺の事なんか好きじゃない芦田君を好きでいても不幸になるだけだよ」
その言葉にぼとりと涙が零れ落ちた。
自分勝手で横暴。
鈴峯の俺への解釈は間違っていない。けれど、鈴峯の事は好きだ。好きじゃないという部分は訂正したいが、俺を好きでいても不幸と言う鈴峯に、何かを言う資格は無い。
鈴峯は俺の頬を伝う涙を拭う。
穏やかで、幸せそうな顔の鈴峯がとても綺麗だと思った。
「……でもきっと、何度生まれ変わっても、俺は芦田君の事を好きになるんだと思うよ」
照れ臭そうに笑う鈴峯なんて初めて見た。それに胸が締め付けられる。
「鈴峯……っ!」
思わず抱きしめると、腕の中で鈴峯は笑っていた。
「芦田君の泣いてる顔見れるなんて、幸せだ。しかも、それって俺の為に泣いてるんでしょ?」
鈴峯が笑う。けど、その声は震えていて、どんどん泣いてるような声になっていく。
芦田はぐずぐずと泣きながら、抱きしめる腕に力を込めた。
もう離せない。離したくない。
「……鈴峯、ごめん。辛い思いさせてごめん。傷つけて、ごめん……。信じてくれないかもしれないけど、」
ああ、こんな事、言いたくない。
今まで女に散々吐いてきた、軽い言葉だ。簡単な言葉を口から発する事がこんなにも怖いだなんて、思ってもみなかった。
「……ごめん、でも」
……愛してる。
口づける寸前呟くと、鈴峯は「俺も」と笑い、目を閉じた。
END
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2011/7/12 ブログリより移動
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カルア拝