『しっずおくーん!』
「あ?」
横断歩道と挟んで向かい側。ダークレッドの髪と人より頭一つ分高い身長に、濃い色の縁眼鏡をかけた整った顔立ちの――鴇が、笑顔全開で手を振っていた。
ぱっと信号が青に変われば編み上げのショートブーツを踏み鳴らしながら軽い足取りでこちらへやってきた。
『偶然!仕事終わったの?』
「今日は休みなんだよ。お前こそ仕事は?」
『いやー、昼間はあんまり仕事のないニート君だからねえ。今日はバイトもないから』
ひょろっひょろの見た目に似合わず、こいつの仕事は所謂掃除屋というやつで。俺のように強いというわけではなく、受け流すのが得意というか、攻撃が効かないというか。とにかくまあ、鴇に負けたことはないが勝ったこともない。
「バイト?んなのやってたか?」
『あれ?言ってなかったっけ、執事喫茶のバイト』
「はあ!?んなもん聞いてねえよ!」
そうだったっけ、なんて惚けた言い方に低い沸点にかかりそうになるが、鴇はこんなやつだ、悪気はないんだと言い聞かせる。こいつに何か言ったところで飄々と受け流されるだけなのだ。
しかし、執事喫茶だあ?なんでまたそんなところにバイトなんか。
そんな俺の訴えを汲み取ったのか、鴇はからからと笑った。
『給料よかったからね!面接行ったら一発合格だったのですよ』
「そりゃあなあ…(鴇だし)」
『女の子がちやほやしてくれるし、俺も女の子に尽くしてればいいから楽しいんだよねえ』
「つーか昼のバイトするほど、仕事ないのか?」
本業の方、と濁して聞けばゆるりと首を振られた。どうやらないわけでもないらしい。
『表の人間関係も必要なのですよ。何事も表裏一体、どちらにも通じてなきゃ動けないってなもんです』
「そういうもんか」
『それに仕事は臨也が斡旋してくれるから――っと、』
和やかに話していた。
ゆるやかに、鴇のペースのように。
しかしアイツの名前が出た途端、反射的に動いた腕は鴇の胸元を通りすぎ空を割いた。
「鴇ィ…お前まだあのノミ蟲のところに言ってんのかあ…?」
『やだなあ静雄くん、お仕事ですもんそりゃあ行きますよ』
俺の腕をさらりと避けた鴇はまた始まったとばかりに肩を竦ませた。
ああ、知ってる。知ってるさ。仕事で行かなきゃなんねえのも、鴇に何言ったって無駄なのも、毎回同じこと言ってるのも、全部。
だけどな。
「理屈じゃねえんだよ!!」
『あらら、この前もおいかけっこしたばっかじゃないよ静雄くん。今日くらいゆっくりご飯食べようじゃないか』
「お前がもうノミ蟲のところに行かないって言うんなら、な!」
手近にあった道路標識を引っこ抜いて右手に持つ。
それを構えながら見えるのは、はあ、と溜め息をついて眉を下げる鴇の顔。
『俺が無理っていうのわかってて言うんでしょ?静雄くんも懲りないなあ』
交渉決裂、ご飯はまた今度ってことで。
言い切る前に俺の手からは道路標識が消えていた。
派手に響くコンクリートの砕ける音は、鴇が俺の投げた道路標識を避けたことを物語っていた。
『もー、公共物壊しちゃ駄目っていつも言ってるのに』
すた、と鴇が降り立ったのは歩道に突き刺さった道路標識の上。器用にバランスを取って立っている様はひどく不自然だった。
そこ向かって走る俺を避けるように跳躍した鴇は、力を受け流すように一瞬俺の肩に触れた。
そうした鴇はくるりと空中で一回転すると俺の後ろを取った。
『今日のところは帰ることにするよ、執事喫茶をよろしくー』
じゃね!振り向き様に繰り出した裏拳も入ることはなく。
鴇が置いていった執事喫茶のポイントカードだけが、虚しく風に舞った。
(そうしてまた今日も止められないまま)
ノミ蟲が早く消えればいい、遠ざかった鴇の背中を見ながら小さく呟いた。
***
ゆるゆるですた