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美味い肉が食べたいとごねたのはヴォルフだった。普段から美味い肉を口にしているにも関わらず妙なこだわりを唐突に言い出すのは奴らしいと言えばそうなのだが、まさか絞め殺すところから始めるなど誰も思わないだろう。傭兵の癖に血腥いのが嫌だと文句を言い始めたルーヴァンはリビングで待機しており、仕方ないから二人でやるぞと腕まくりをしたヴォルフと共に、暴れて脱走しかけた生きた鶏を腕に抱えて早速屠殺を始めた。どこで仕入れてきたんだ、とやる気満々のヴォルフに聞いても「機密情報だ」としか答えないあたり、どこぞで盗んできた鶏じゃないだろうかと嫌な予感がした。だが今更鶏を野に離したところで、人間慣れしている彼(見事な鶏冠はそうだろう)が生き延びてくれるかどうかは定かではない。
呆気なく死ねたら楽なのだろうか、と考えたことがあった。日々を戦場で過ごし、生きる気力も死ぬ気力も無く、ただひたすら照準眼鏡を覗き込んで相手を死に追いやる生活をしていると、生死の境界線が曖昧になっていく。もしも自分が頭を撃ち抜かれたら、それこそそれが最期になったときは、一体どんなものなのだろうか。死んでみなければ分からないと人は言うが、死んでしまったら感想を伝えることも出来ないし、何より「死んだ」という事実すら分からないのかもしれない。死は身近ながら、あまりに遠い存在なのだとしか思えなかった。
進化を遂げた人間の知性、それが生み出した功績と弊害は大きいものだと、眼前で繰返される行為を眺めながら、ガルエラは煙草の煙を吐き出し、そう感じていた。脳の容量が増えた人間は、考え、想像し、閃き、実行に移す過程を覚えた。この根底にあるのは「何故」「どのように」といった好奇心だ。好奇心があれば目標に向かって追求していく力が生まれる。何故か、どうしてか、と根本的な疑問を解決するために、人間は色々な方法を作り出し、実践していくわけだ。
女の扱いと銃の扱いは良く似ている。丁寧に整備して気を遣い、己のように思ってやらないと臍を曲げる。定期的、小まめなコミュニケーションをしないと関係はすぐ駄目になる。人間と物、全く違うものなのに何故そうも同じ扱いになるのかを聞かれたことがある。どうしてかは実際のところ良く分かっていなかったが、女には愛情を会話として、銃には愛情を手入れとしてやることがきっと同義なんだろうと思えた。逆に言えば、銃へ粗雑な扱いをしている奴は女にもそうなんだろうとしか見えなかった。泥だらけの銃を引っ提げて戦場へ赴く同僚たちの背中を見て、兵士として、傭兵として生きながらえてきた俺自身の率直な感想だった。今日も今日とて、汚い銃を抱えた男どもが、ボロボロのトラックの中で揺られていた。戦場は地獄だった。経験した者にしか分からない世界だ、硝煙と泥と血に溢れた視界に、叫び声がオーケストラとして指揮を執る。こんなに腐った世界は出来るならば見たくもなかったが、もうそこでしか生きられないようになってしまった身体は、金欲しさに慣れてしまったらしい。今日は何人生き残るのか、腕や足を残したまま帰れるのか、そんなことしか考えなくなった。全ては金のためだと思ったらどうでも良くなったのかもしれない。家で待つ女に会いたい、初めはそう思ってさえいたが、過去の話だった。今は胸に抱えた銃だけが俺の全てになっていた。
これも金の為だと思ったらすぐにどうでも良くなった。貧困に喘ぐ者は使えるものは何でも道具にするものだと、実地で学んだ。名誉も名声もなくていい、ただその日一日の食い扶持に困ることがなければ良かっただけなのだ。金を持っている者が経済を回し、持たざる者がその恩恵を受ける。恩恵の為にはどんなことだってしようと思えば出来た。そういうところで生まれ育てば、感覚や感性は狂う。故に腰を振れ、逸物をくわえろ、と、命令されれば従うのが当たり前だった。