彼の、左手の薬指には、忘れられない思い出が、きっと俺よりもたくさんたくさん詰まっているに違いない。そう考えて胸が苦しくなるのは、昔からずっと消えてなくならないものだ。
「……により、本国では税を……」
ピンとはりつめた空気の中、会議室ではイギリスの声だけが響き渡っていた。彼がホストであったとき、他の国はいつもペラペラと喋る口を閉ざす。実に不愉快だと思う反面、どうにもイギリスらしいと納得してしまうのもまた確かだ。
目の前に広げられた書類に目を落とす。グラフ、パーセンテージ、どれもこれも俺には退屈なものでしかない。しかし、俺も、仮にも世界で唯一、超大国のアメリカ。無視はできない。
「退屈だなぁ」
「そうだね」
隣のフランスが呆れ返ったように声を出した。と、一瞬イギリスの目がこちらを向く。彼は格段に耳が良い。こわやこわや。
肩を竦めると、そっとイギリスの左手が放送禁止用語の形を作った。君はどこまで悪徳なんだい。だけれども、俺にはそんなこと、関係なかった。
意識していなくても、どうしても彼の左手へと視線がいってしまう。見ていたって俺が辛くなるだけなのに。どうして。
「ハァ……」
思わずデカイため息が、彼の声にかぶさってしまった。剣呑なイギリスの目が、ついに俺を捉える。しまった。これは怒らせてしまったかもしれないんだぞ。
「なんだアメリカ……そんなに俺の話が退屈か?」
「まあね」
「ったく図体ばっかりでかくなりやがって。頭はこれっぽっちも成長してねぇんだから」
半ばバカにしたような声でイギリスは大げさに両の手を使って肩をすくませた。当然、左手は俺の見える位置に、ゆらゆらと揺れて見える訳で。
『…!アーサー、これ…』
『お前のために選んだんだ。受け取って、くれるよな…?』
『ええ、…ええ!もちろんよ、うれしいわ、アーサー!』
ウェディングリングを、わざわざアンティークでシンプルなデザインにしたのは、彼と"彼女"との共通点だったに違いない。それとも、すぐに錆びてしまうもろい関係と比喩したのかな。
「……そうだね」
「…………アメリカ?」
そうだ。いつもイギリスは、彼女を呼ぶときとおんなじ声音で、俺の名前を呼ぶんだ。イライラして当たり前なのに、なぜかとても悲しく思う。胸が、締め付けられそうに、なるんだ。
「イギリス」
「な、なんだ。どうした、大丈夫か?」
昔、昔のお話だ。それは彼女が知らない、唯一の、俺の特権だった。彼を独占できる、唯一の。
『人を愛するのは、どうしても限界があるんだ、アメリカ』
彼女が年老いて亡くなった日も、俺が君から別れた時のように、激しい雨が降っていた。いつまでも墓石の前に膝をついたまま、イギリスは静かに泣くのをやめた。
人間には期限があって、俺たちのように無期限なんかじゃない。ただどうしたって君がその指輪を外そうとしないから、俺の腕はイギリスを抱き締められない、抱き締めてやれないのだ。
最愛の人は、もう何百年も前に、君を見守る天使になったんだよ。
そう言いたくて、いつまでも言えなかった。
「…………」
「…っあ、アメリ…!?」
ただいつのまにか目から涙が溢れていて、それを拭ってくれるその左手を、俺はずっと待ってる。奪ってしまえば、記憶を俺でいっぱいにしてしまえば。そう思うのに。
「アメリカ」
「……イギリス、」
彼が幸せならそれでいいとも、思うのだ。
<おしまい>