※家→←三←吉+お市
※市は西軍
※泥々三つ巴
「……蝶々さん、闇色さんが…泣いているわ…。」
ゆらり、と。音もなく開けられた襖の隙間から、地面より出でる手に支えられた第五天が我に語りかける。そのほの暗い囁く様な声にはこの世の有りとあらゆる不幸が詰め込まれている様で、我の耳には心地好い。特に断る理由もなく、第五天の囁く言葉の真意も知りたい我は第五天を己の部屋へと招き入れた。
「…こんな夜更けにわざわざ主から訪れるとはなァ、我に何用か?」
「闇色さんが…泣いてる…市には聞こえるの。」
「三成が、か…第五天、主が気にする事は無い。」
「今もほら…聞こえる、聞こえるの…。蝶々さん……闇色さん…あのままでは市の様になってしまう…。」
じっと、果てのない闇を含んだ瞳が我の一挙一動を見つめる。その瞳の輝きは直接見ずとも我の心に小さな漣を起こす。
「我の知る三成は理由無く泣く男ではないからなァ…何ぞ人に知られたくない、一人涙を流したい事でもあるのだろうよ。主が気にする事ではない。」
「違うわ……蝶々さん…貴方は理由を知ってる……ねぇ、闇色さんが泣いているの。市には何も出来ないの。」
第五天が我の手を引く。
「……市の、眼を見て…?」
「ヒヒッ…我の命でも吸うつもりかァ?」
「………蝶々さん…闇色さんの事、助けてあげて…ね?」
頑として顔を上げぬ我に痺れを切らしたのか、第五天の影から伸びた手が我の体にまとわりつき我の自由を奪う。その手が我の眼を覆った時、急に我の意識は遠退いた。
「…貴様が私に何の用だ?」
「三成、ワシはお前と二人で話がしたかった。」
「…ここがッ!何処だか解っているのかッ!」
「解っている!だから危険を犯してまで三成と話をする為にここまできた!」
聞き慣れた声と嗅ぎ慣れぬ土の匂いに我はふと目を覚ます。辺りを見回すが深い闇の中、月明かりに照らされ辛うじて目視する事ができた大阪城の影に目の前は森、背後には城壁。という事はどうやらここは城の外らしい。第五天の姿は既に消えていた。殆ど何も見えない闇の中、先程聞こえた声の主の姿を探す。
「貴様という奴は…これだから馬鹿だと言うのだ!消えろ!私の前から!今すぐにだッ!出なければこの場で斬殺してやる!!」
「…刀も持ってないのにか?」
そう遠くない場所に三成と徳川が居るようだ。再び闇に慣れた目で声の出所を探る。と、城壁から少し離れた開けた森の中で二人が対峙しているのを見つけた。
三成の月に照らされ美しく光る銀色の髪に徳川の金色の陣羽織、間違いない。二人の姿を確認すると、何故こんな所へ徳川がという事よりも、今、あやつを三成へと会わせてはいけないという気持ちが沸き上がった。
(…止めなくては……三成、そやつの話など聞いてくれるな…。)
上体を起こし這う様に二人の立つ開けた森の中へと向かう。力の入らぬ足が酷く邪魔だ。
「刀なぞ無くとも無防備な貴様くらい…撲殺してくれる!」
「止めろ三成、ワシはそんな子供の様な喧嘩をしにきた訳じゃない。…戦場では伝えられない、ワシ個人の…武将としてじゃない!某、徳川家康!ただ一人の男として三成に話がある!」
「そんな御託を並べても無駄だ!私の友として生きていた徳川家康はあの雨の戦場で死んだのだ…今更貴様の話などッ!」
先程より確実に近付く声に心が粟立つのを感じる。急ぐ気持ちに己の体がついていかない苛立ちに、絆を解く男の声に対する苛立ちに、…第五天が己に課した残酷な役柄に、声にならない叫びをあげた。
(三成…三成…主は、主は…その劣情に気付いてはならぬ、その災厄の種は芽吹かせてはならぬ…我が、させぬ…!)
力の入らぬ足に無理矢理力を送る。適当な木に擦り寄る様に立ち上がるとそのまま近くの木々を伝い一歩、また一歩と踏み出す。二人の姿が少しずつ近付く。常人の足ならば10歩といったところか、その程度の距離すら輿のない我には長い道程だ。歩みを進める度に気持ちだけが先へ先へと手を伸ばす。
「…三成、話だけでも聞いてくれ。いや、ワシの気持ちだけでも三成に知っていて欲しい。」
「煩い煩い煩い!私は貴様が何を思い、豊臣を、秀吉様を、半兵衛様を…そして私を裏切ったのか…理解など出来ない。貴様の心情など理解したくもない…!」
「…拒絶されるのは分かっていたんだがな…ワシ自身にもこの気持ちはどうにも出来なかった。聞いてくれ三成、ワシは、お前の事が好きだ。」
「戯言を…今すぐその口を塞い…!」
月明かりに照らされた二人の影が重なる。何をしているかなど近づかなくても解るというものだ。その光景を目の当たりにした瞬間、ああ、我は間に合わなかったのだなと悟った。
自然と足の力が抜けていく。膝がガクガクと笑っている。我はそのままその場へと座り込んでしまった。徳川の手が三成の髪を撫ぜ、三成の体を抱きしめる。三成の腕が迷う心を表すかの様に小さくあげ下げを繰り返す、が、何かを決意した様に徳川の背へと回される。
我はただ、抱きしめあう二人の姿を見つめていた。否、見つめる事しか出来なかった。我は、三成に降りかかるであろう不幸を止める事が出来なかったのだ。胸に鋭い刃物で風穴を開けられた様に我の心に冷たく暗い何かが渦巻く…我は何故ここで達観している事しか出来ないのであろうか。
「…だから、私は貴様が嫌いなのだ…。」
三成が徳川の体を押し放しその腕の束縛から抜け出すと、名残惜しそうに指先で徳川の頬をすぅ−…と撫でた。
「…もう用は済んだのだろう。さっさと私の目の前から消えろ。これ以上私を惑わすな。」
「三成…次会う時は戦場だな…。」
「ふん、何を知れたことを。元より貴様と顔を合わす場など戦場以外にあるものか。首でも洗って待っているんだな、…私は貴様を絶対に許さない。」
再び二人の影が重なる。二度目のそれはすぐに離れた。
徳川が三成に背を向け走りだす。三成はその背が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
(ねぇ…闇色さんが泣いているわ…)
ふと、第五天の声が聞こえた気がして我ははっとする。今の我には第五天の声が無くても三成の心の内が手に取るように解る気がした。
泣いて、いる。凶王とまで言われた美しき刃が、その刃を折られ悲鳴をあげるが如く。深く暗い絶望の響きが、声無き獣の慟哭が、全てをぐちゃぐちゃに掻き混ぜた様な三成の悲痛の叫びが聞こえる気がした。いや、我には聞こえたのだ。
(…三成、主を、独りで闇の淵へとは落してやらぬ…。)
続