人はただ歩いているだけでは道を歩くアリと同じだ。道を歩くだけで興味をひく事はやろうと思えばできるけど、そんな手間は誰もしたくない。


どうも、さっき書いてた記事がブラウザのフリーズで消えました…芝村です。上のは気まぐれで適当に書いてる当たり前の事です。「目立てばいじめられる」と言う事が学校に蔓延してるのに、成人になってからそれをしようとするのはいじめっ子といじめられっ子だけだと思います。持論です。



最近「いじめ」を取り上げるニュースが多いですが、はっきり言って馬鹿馬鹿しい事を延々とやってるなぁとしか思えません。僕はいじめられた方の人間ですが、「いじめ」を真剣に考える事は「人を憎む気持ちを子供に持たせない、それを周りに当てないようにするにはどうすべきか」を考えることと似てます。つまりは子供に対して「もっと大人になれよ」と育てた親たちが言ってるのです、滑稽なコントに思えてなりません。

そもそも「いじめ」という言葉が出来る前に学校生活を送っていた人たちが、「いじめ」を考えても答えは出にくいでしょう。…答えなんてものは無いんですけどね。人の様々な感情を押し殺す術を、または他の事に昇華する術を無意識にやってる人たちがほとんどなのですからね。

元いじめられっ子からすれば、「いじめを受けた本人がその事を当たり前の事だと認識する」と言うのが一番の近道なのですが、これは同時に危険性を持っています。進学した先で立場が逆転したり、人の親になった時に「人が人を虐げるのは当たり前」という答えを勝手に信じ込んでしまうからです。なので、当たり前の事だと認識しながらも自分はどこかおかしいのではないかと疑問感を持つ事が大事です。…とはいってもこれもケースバイケースで人によって変わっていく事なのですが。



これだけ「いじめ」に対する報道があるのに対して、正確に「いじめ」というものをカテゴライズして紹介してる番組が一つもないことに疑問感を持った事はありませんか?僕はあります。正しく言うと「カテゴライズする事が出来ない」のですけどねwwいじめられている張本人が受けた行為を「いじめ」であると認識した時、それはいじめになるのです。





例を挙げてみましょう






「教室で誰とも喋ることなくうちに帰る」という事例があったとしましょう。補足として授業での回答や先生との会話は別とします。

これは人によっては当たり前の事だったり、好都合なこともあるかもしれません。かくいう僕も、音楽と本が好きだったので人と会話するよりも本読みながら音楽聞いてた方が幸せでした。
しかし、こういった事例であっても人によっては「いじめ」を受けていると捉える事が出来ます。クラスから孤立している状況を本人がつらい、と感じるのなら、それはいじめになる可能性があるのです。


まさしく雲をつかむような話です、これらの対応に追われている教師の皆さんには同情はします。しかし、僕は中学時代に先生から「クラスで一人だけ」体罰を受けていたので、あんまり先生というものが好きではありません。多分今僕がテレビなどに証言したら、あの先生大変だろうなぁ…と思います。しませんけどねwwww



僕も様々な「いじめ」を受けてきましたが、おかげさまで「人間のクズ」と呼ばれてもおかしくないような立場と病院に通わなければならないほどの精神障害を手に入れました。えへへ



いじめはなくならないと思います。いじめがなくなるのは人の心から「憎しみ」や「嫉妬」の感情が消えたときでしょう、しかしそれはもう人とは呼べない。


ここまで頑張って読んでくださった方がいらっしゃいましたら、とてもうれしいです(土下座。頭がぐらぐらする状態で書いたので、ところどころ読みづらかったと思います、すみません。


では、僕は今日も人に嘲笑されることに怯えながら寝ます。ノシ