先週大学で習ったことをひとつ。


非学校論ってのを唱えた人がいたんだけど
(プリント見ればわかる 取りに行くのめんどくさい)
確かに私達は十六年間くらい学校に通わされて
学校がすべてなんじゃないかって考えを
植えつけられているような気がする。

だから偏差値至上主義や大学名のネームバリューで
いろんなことが決まってしまうんだと思う。
学閥とかそういうのではなくて
一般的なランク付けてきなやつで。

でも、そもそも学校での勉強ができたからって
使える人間とは限らないよね。
読書が趣味で多様な知識があり、
海外にも何度も言っていて様々な経験があるけれど
地元から離れられないから無名の地方私立に通ってる人だっているだろうし、
逆に受験勉強以外のことは何一つできない都市の大学生だっている。

そもそも、学校に馴染めなかったりいじめを受けたせいで中退した人とか
そういう人たちが高評価されない社会ってのもおかしいよね
だって人間は多様なんだし それぞれ個性があるんだし
既存の学校制度に適応しないひとだってたくさんいるはず。

で、本題。

学校に頼らないで有能な人ってなんだろうって考えたら
私シュウさんしか浮かばなかったんだよね、
ヘブライ語だっけ?シュウさんできるし頭もいいけど
面倒くさくて欠席ばかりして留年してる。

学校っていう狭い枠の中だったら
留年っていう肩書がディスアドバンテージになるけど
頭もよくてバイリンガルで…って
人間的にはすごいよね。
シュウさん人間じゃないけど!!!

海外はどうなんだろうって考えてみて
私の中にある海外の学校はホグワーツだけなんだけど

ハーマイオニーは学校での勉強はもちろんできるけど
本による知識がたくさんある。
そこが評価されている描写もたくさんあると考えると
図書館っていうのが大事なんじゃないかって思った。

日本の学生ってあんまり図書館を利用してるイメージないよね。
学年一番だった人は私を含めて(突然の自慢)
あんまり図書館を頻繁に利用してなかった気がする。
逆に、本をたくさん読んでる人は
成績が真ん中くらいであまり評価されてなかったな。

話が飛んでしまって申し訳ない。

つまり、学校至上主義のせいで
本来評価されるべき人たちが評価されずに
短期記憶の暗記ができる人たちが評価されてる気がするんだよ。

大学のテストだって結局は文章力のある人が評価される。
そのアウトプットは社会に出てから仕事に役立つけど
人間として本当に必要なもの?
豊かな生活を生きる上で必要なスキルなのかな?

ある日突然 いままでみたいな第三次産業の仕事がなくなったら
今持ってるパソコンのスキルとか全部いらなくなるんだよ?
なのに、そればかり要求されてる。

あと数十年たつと人間がやっている仕事の殆どを
ロボットが担う時代が来ると聞きました。

学校至上主義にとらわれて学校の勉強だけしているだけでよいのか
考えなければならないと思いました。

長くなってしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。