アカデミズムに厳格な人は、シュルレアリスムの作品をみて「なにを遊んでいるのだ」と憤るかもしれない。(すでにシュルレアリスムがアカデミックかは置いておく)
しかし、シュルレアリストは素直に「ええ、そうです。遊んでいるんです」と答える。
また「シュルレアリスムはピカソのように技術を持ったものが実践して初めて語れるのだ」と威厳を付そうとするかもしれない。
しかし、シュルレアリスムにそんなものはない。誰もが実践し語れる。

著者は、シュールレアリスムの実践が<遊び>だと定義する。
子供の遊びを観察しているとそこには自由さがある。いわゆる、幼稚な遊びではあるが、純度の高い創造性が存在する<遊び>である。

シュルレアリストの考案した技術には、コラージュやフロッタージュ、デカルコマニーなどあるが発想はどれも幼稚である。
一見それは、教養を無視した人間的退化にみえる。故にアカデミズムではこれを破廉恥とし発想もしなかっただろう。
しかし、それは言い方を変えれば純粋さの復権でもあるのだ。

シュルレアリストは職業化した芸術を放棄する。
自ら遊び芸術を創造していこうとする。

一応、カタログらしいが読み物としても充分に魅力がある。
入門には打ってつけだと思う。



話題:読書日記