読むのはオススメしません。






最近、ずっと燻ってます。悲しいとか辛いとか虚しいとか、息が詰まっていっぱいいっぱいな感じです。何がどうとか、ハッキリ言えることじゃないんだけれど、自分は人間に生まれるべきじゃなかったように思います。希望になるような言葉も明るい未来を見せる言葉も、今の私には何一つ染みないというか飲み込めない感じです。飲み込もうとすれば溜め込んだ感情諸共吐き出しそうです。こういうの荒んでるっていうのかな。考えていること、というか、気付いたことなんですけど。私は母親の愛も父親の偉大さも、どちらも実感する前に妹が出来てそれから暫く私のことを愛してくれていたのはおばあちゃんで、だからおばあちゃんだけが私の傍にいてくれたのに、おばあちゃんは6歳のときにガンで亡くなりました。亡くなってすぐ、両親が離婚して母親について行ったら父親に恨み言を言われ、母親は仕事と若い男に夢中で一緒にいなければ母親の視線は妹か携帯の画面。苛立ちをぶつけられて殴られて蹴られて閉じ込められて、祖父が面倒を見てくれるにしてもやはり小さい妹ばかりに視線は向いていて。ずっとそんな状態で、でもどうしたらいいのか分からなくて少しずつ緩やかに壊れていって自傷癖が出来て、それでまた殴られて。中学を卒業するまでずっと苦しくて仕方がなかった。でも高校で皆が自分を見てくれるようになって、同じ匂いのする悪友に出会って辛かったことも少しずつ忘れることが出来たけど、やっぱり長い時間を掛けて壊れたものは治らなくて学校にも行けなくなってしまった。高校は凄く楽しかった。好きな友達がいて、ぬるま湯みたいな中学と違って暗い部分を理解してくれる人がいて、毎日が楽しくて仕方がなかった。だから高校の先生が、私が精神的に弱る理由が分からないのも仕方がないと思う。自分を好いてくれる友人や男の子や後輩がいて、確かに色々束縛されて面倒ではあったけど、求められていることが嬉しかったし私も彼らを好きだったし充実してたから。それでも私は今もこうして燻るのは、恥ずかしい話両親に一度でもいいから、ちゃんと自分を見て愛して欲しいのだろうと最近気付いた。恋愛とか性欲とか本当にどうでも良いのも、親子の愛がよく分からないし母親の恋愛歴を真横で見て来て嫌な思いをしてきたから。そう考えると私は一生このままで、コンプレックスを解消することなく生きて一人で死んでくのだろう。男性も女性も私の目から見れば人間という認識で、異性という風には見れないしそうなろうとするならば嫌悪してしまう。何だかそれでもいい気がしてきた。生きて死ぬのは植物も人間も一緒で、無理に気持ち悪いと感じてしまうことをしなくてもいいと思った。どんな生き方をしようが、死は平等にやってくる。善人も悪人も、金持ちも貧乏人も、死だけは平等で生きるのも死に方も死ぬまでの過程に過ぎないんだろう。それだけを楽しみに、それだけを生きがいに、適当にそれなりに。幸せだとか不幸だとか、優秀かそうでないかだとか、もう何でもいい。私は私が大嫌いだし、人もろくに愛せない。もうそれでいい。誰が憎くて誰に幸せになって欲しいか、もう忘れよう。最低だと言われてもいい、私もその通りだと思う。でも私はそう考えるだけで少しだけ息がしやすくなる、間違っていると言われても、それが生きやすいんだ仕方ない。スッキリ。