ヅラの思い出話。松陽先生との小話。
よくよく思い返せばその日は朝から、空模様の怪しい日であった。秋の訪れを告げるかのように涼しい風を伴って、夕暮れ刻になってしとしとと降り始めた雨を視界に挟めて、桂小太郎は一人ほうとため息を吐いた。
何故傘を持たなかったのだろうか。ほんの所用を済ませるだけのつもりであったのだが、この雨で足止めをくらってしまった。馴染みの茶屋の軒先から見上げた雲は、先ほどよりもいっそ暗くなってきたようにも思える。雨音を楽しめていたのも最初だけで、すぐに所謂ゲリラ豪雨というか、遠くの景色も揺らぐような土砂降りに変わってしまった。
この所続いていた猛暑は多少なりナリを潜め、足下に跳ね返る水滴が体温を奪いむしろ寒いくらいだ。思わずぞくりと身震いをして、自分も歳をとったものだと苦笑いが漏れた。
幼い頃は夏ばてなんて言葉とも縁遠かったというのに、この夏から秋へ変わる気候の変化が気に掛かるようになったのはいつ頃だったろうか。無邪気にはしゃぎ回っていたあの頃が、随分と遠い日になってしまったように思う。
そう言えば、一人見上げる薄暗い雨空には覚えがあった。あの時の空は今のように電線や何かで遮られてはいなかったが、もっともっと狭くて近くにあったような気がしていた。いや、少し違うかもしれない、自分がもっともっと大きい気がしていたのだろう。
確か、今と同じような夏の暮れであった。いつものように銀時と二人、ぶらりぶらりと村塾から近場の山で遊んでいた気がする。途中から何故か高杉も合流して三人でああだこうだと他愛もない喧嘩をして、確か珍しく自分が何かへそを曲げたのだ。ふいと気を逸らしてむくれていたら、気が付いた時には辺りには誰もいなかった。遠くの方で聞き覚えのある声はしていた気がする、何やら喧嘩に火がついてどんどん止まらなくなっているような幼なじみ達の騒ぎ声。
どうしてだか、その時自分はその声を追い掛けようとは思わなかった。原因は思い出せないような本当に些細な諍いであったのに、きっと何か譲れない事でもあったのだろう。我ながら頑固な可愛くない子どもであったなと思う。
いつの間にやら声も聞こえない所に友人達が行ってしまってようやく、自分が一人はぐれてしまった事に気が付いた。しかも彼らに気をとられていたおかげで、いつもは踏み込まないでいたような深い所に入ってきてしまったようだ。鬱蒼と生い茂った木々から辛うじて差していた木漏れ日も、雲がごろごろと不穏なうなり声をたて暗くなるのに伴って姿を消してしまった。
途端に不安が襲ってきたが、道も分からないし、何より彼らを探しに行くなんてあの時の自分にはどうしてもできなかった。こうなったらもう意地を張りきるしかないと、ぐっと口をつぐんで草葉の陰に腰を下ろした。膝を抱えて座り込んで、ぼすっと顔をそこに埋める。意地のつもりだったけれど、多分、口を開くと声が震えてしまいそうだったから、そんな自分が許せなくて。
ぽつりぽつりと耳元で何かが跳ねた音で、ばっと顔を上げた。眠りかけてしまっていたらしい、空模様が先ほどよりももっと暗さを増していた。ぽつ、ぽつと可愛い音で聞こえたのは最初だけで、すぐに音はざあざあと太くなった。
眠気を払うように緩く首を振った拍子に水分を孕んだ髪が頬にひたりと張りついて、やっと夕立にあたってしまったのだと理解した。木々が粗方雨を防いでくれるものの、少しずつ着物の端から水を含んで色が濃くなっていく。先ほどよりも、ぎゅっと体を縮めて丸くなった。
身体の端々から熱が奪われてゆく感覚、加えて視界はどんどん闇に包まれてゆく。さして大きな山でも無かったし、少し引き返せば見知った道にでただろうに、幼心にはこのまま帰れなくなってしまうのではないかといたく怯えたものだ。じわりと何かが滲んだ目元に歪んだ視界は、雨のせいだと自分に必死に言い聞かせた。
「見ーつけた」
今度こそ眠りこけていたようだが、眠りの淵から引き上げてくれたのは聞き慣れた優しい声色だった。
幾度か瞬きをしてぼんやり瞼を開いたら、同じ目線にいる大きな瞳、ゆるりと弧を描いた唇、先が湿気で色の変わったくすんだ栗色の髪、肩や袖が濃くなった灰色の着物。夢だろうかとぼうっとしていたら、眼前の笑みが深くなって濡れた手が頬にひたりと触れた。
「…しょう、よう…先生!?」
「はい。おはよう、小太郎」
目の前で笑う人が大好きな先生であることに気が付くのに少し時間がかかってしまった。慌てて立ち上がった拍子に、派手に音をたてて頭上の枝に頭をぶつけた。
苦笑いして伸ばされた手に手を重ねれば、ゆっくりと引かれて。何となくその手に引かれるままに歩きだした。そう言えば、雨が上がっている。雨が色々な物を流していったようで、やけに空気が澄んでいた。
「あの、なんで、先生」
「銀時と晋助がね、あなたがいないって大騒ぎするもので。本当は探しに行くって聞かなかったんだけれど、もう夜だから二人は帰らせました。よっぽど上手く隠れたんですねえ、銀時が見付けられなかったんだから」
「…迷惑かけて、ごめんなさい」
「迷惑だなんて。とにかく、無事で良かった」
重なった手のひらはじわじわと温かくなってきた。慌てて出てきたら傘忘れちゃって、なんて笑う先生を見上げると何だか目頭が熱くなって、何度も雨で濡れた頬を拭うふりをした。
「ああ、小太郎。迷惑はかけてないけれど、心配は色んな人に沢山かけさせましたね。夏とはいえ夜の山は危ないし…それに、こんな深くには入らないように言われていたでしょう」
「…はい」
「二人と少し喧嘩したらしいけれど、それは構いませんよ。沢山議論してぶつかってください。でも時と場合を考えないと。今回みたいに危ない事は気をつけること。三人いたんだから、どこかで誰かが一歩足を止めて考えられるようになりなさい」
「はい」
「じゃあ、はい。反省終わり。帰りましょうか」
不意に真面目な声色が降ってきて、思わず背筋がぴんと伸びた。身体を振るった拍子に毛先から水滴が飛ぶ。濡れそぼった結った髪はそれなりの重さを持って揺れていた。
くるりとこちらを振り返った先生は、淡々と諭すように唇を開いた。けれど、幾度か頷いてそれから真っ直ぐに目を見て返事をすれば、ふわりと雰囲気を和らげて頭を撫でてくれた。
「まああの子達があなたを完全に忘れて帰ってきたのもあれなんだから、そんなに気にしない。でもすごく心配はしていたから、明日は二人といてあげてくださいね」
「はーい」
「晋助なんかもう泣きそうで。幾つかさっきみたいに言わなきゃいけないことはあったのに、それどころじゃ…あ」
そうしてまた帰路を歩きだした、筈だった。幾らか歩みを踏んですぐに、先生はぴたりと足を止めたのだ。何かあったのかと伺おうとたたっと駆け足で隣に並び立てば、その理由が分かった。
雨上がりの澄んだ空気を一身に纏って夏の夜空を彩る仄かな灯り達が、視界を埋め尽くしていた。
「うわあ…蛍…」
「雨を避けてこの辺りに身を隠してたみたいですね。ちょうどいいところに」
ゆっくりゆっくり歩みを進めれば、まるでこちらに行く道を示すようにさあっと足の先が開けた。すっと手を差し出してみれば一匹二匹と指先に舞い降りる。すっかり頬も緩んで得意気に隣を行く先生に手を掲げて見せてみれば、優しい笑顔に迎えられた。
「銀時と晋助には内緒にしておきましょうね。探しに奥まで踏み込んだらいけないから」
悪戯っぽく笑ってしいっと唇にあてた指先に蛍が一匹陣取って、ぽうと光る。二人してきょとんとして、そうして飛び立ってしまわないように気を付けながら、くすくすと笑みをこぼした。元より色素の薄い髪が光と溶け合うよう煌めくのを見て、先生からその光が生じているのではないかなんてぼんやり考えたのをよく覚えている。
蛍の淡い光に照らしだされた先生の笑顔、二人だけの秘密の場所、雨上がりの楚々とした空気の匂い。今となっては自分以外に知る者のいない、夢物語のような幼い記憶だ。
一人で見上げる曇天の空に誘発された思い出と違って、雨の上がる気配は無かった。だが辺りも暗くなり初めてきたし、直に夜になる。雨足が弱まるのを待っていたが、そろそろ腰を上げなければならないだろう。
「…先生。今の俺達を見たら、どう思われるのかな」
あの頃とずっと変わらずにいられると思っていた。三人で、たまに喧嘩はするけれど、いつまでも隣で笑い合っていられるものだと信じて疑わなかったのに。
今も意固地なのは自分の方なのかもしれない、だが、譲れないものがある。構図はあの頃と何も変わらないのに、どうしてこうも難しいのか。喧嘩相手の件の幼なじみに向けて刀を上げたのは自分からだった。いつかそれが交わる時が来たら、ひとしきりぶつかったらまた一緒になれる日が来るのだろうか。いや、必ず来る、だって、今までに何度だって繰り返してきたんだから。
幼い日の感傷と相まってどうしてもウマの合わない幼なじみの姿が脳裏をよぎる。振り払うようにふうと息を吐いて、ようやく腰を上げた。
今の自分に迎えは来ないんだから、自分で歩いていかなければ。
だが、そうして雨空に踏み出した筈なのに、何故か雨粒が触れることはなかった。
『探しましたよ、桂さん』
何かが頭上にあるようだ、視界に影が落ちて一段と暗くなる。少し遅れて、ぺたぺたと気の抜けるような足音。そちらを見やれば、見慣れた白い巨体が視界を埋めていた。
「エリザベスではないか」
『傘持って行かなかったから』
引っ繰り返されたプラカードを読むが早いが、傘を握らされた。エリザベスはどこからか取り出したもう1つの傘を差して、歩き始めた。そうしてから、ぽかんとしたままのこちらをくるりと振り返った。
『戻らないんですか?皆、待ってます』
何度か文面を読んでから、ようやく緩慢な動作で足を踏み出した。雨が傘を打つ音がやけに耳に響く。
『どうしたんですか』
「ふ…何でもないさ。さあ、行こうかエリザベス」
今度は歩みを揃えて軽快に歩いていく。あんなに強かった雨足はゆるゆると弱まり始め、気が付いた頃にはすっかり雲は晴れていた。蛍と違って人工的なものだけれど、帰路を彩る灯りには事欠かない。
大丈夫だ、きっと、雨は上がったのだから。
傘を閉じて緩く振るって水を切って、桂小太郎は真っ直ぐに前を見て歩き始めた。