晋助の帰郷を迎えた満開の桜は、彼の衰退に合わせてその色を変えていた。庭の木も柔らかな桃色から、深緑の葉桜へと姿を変えた。彼が地球に降り立ち一月ばかり、春は終わりを迎えようとしていた。
晋助は縁側に腰を下ろし、すっかり見る影もなくなった萎れた花弁を摘み上げた。傍らの猪口にそれを落とし酒を注ぐ。水底にゆらゆらと揺れる桜は十分に美しかった。
咥えていた煙管を深く吸い、ふうと煙を吐き出す。酒を呑もうと煙管を離した拍子に血痰を伴って幾度か咽せたが、晋助にはさして気にする様子もなかった。
不意に、左手の煙管が頭上から伸びた手によって奪い取られた。
「肺を患っているのにこんな物を吸う馬鹿がいるか。それに酒も駄目だと言ったろう」
「お堅いねえ。酒は万病に効くんだぜ、どうだい一杯。葉桜になっちまったが酒の肴にゃ事足りる」
小太郎は一瞬渋ったが、お前の代わりに呑むのだからなと念を押して、結局晋助の手から杯を受けた。
すっと目を伏せ杯に唇を付け、軽く上を向いて酒を咽に流し込む。黒檀のしなやかな髪から覗く、こくりと動く真っ白な首筋が晋助の目に付いた。うっすらと浮き上がる血管を純粋に綺麗だと思った。前々から思っていたがどうにも小太郎には人の嗜虐心を煽る節があるようだ。幼い頃から何かと食ってかかっていたのを思い出した。
見上げた小太郎の横顔はずっと昔から変わらない、真っ直ぐなままだ。ただ一点を覗いては、だが。髪の合間に白い物がひらひら揺れるのを見とめて晋助は口角を上げた。
「…何だ、高杉。酒なら駄目だぞ」
「分かってらァ。その包帯、似合わねえと思ってよ」
「お前に言われたくはない」
「ああ?俺ぁ似合いだろうがよ。てめえがしてると何かよ、やらしーなァ」
「寝言は寝て言え」
「褒めてやってんだ」
「いらん」
どういう因果か、小太郎の左目は晋助と同じように包帯で閉ざされていた。ドンパチやっている中で流れ弾を受けたと言っていたが、半分になった視界にも慣れたようだ。
「…ヅラぁ、これでも咥えとけ。その面にもちったぁ風情が出るだろ」
「っ!?」
手から何かをもぎ取られたと認知した刹那、小太郎の口に何かがねじ込まれた。取り落としかけた猪口を脇に寄せて、晋助によって突っ込まれた物を確認しようと手をかける。どうやら煙管のようだった。
満足気に目を細める晋助を視界に挟んで、小太郎はやれやれとそれを吸った。久方ぶりに口にしたものだ、ほろ苦さが腔内に広がる。晋助よりは不恰好にだが二度三度と煙を吐き出してみた。
「風情はでたが…お前が煙管持ってると遊女みたいだな。え?ヅラよぉ。正直抱けるね」
「…返す」
「いい、お前にやる」
予想外の晋助の返答に、小太郎は目を見開いた。宇宙からほぼ身一つで帰ってきたその時にだって手放さなかった、値打ち物の煙管ではなかったのか。あまりにあっさりと告げられたので、聞き間違いではなかろうかと小太郎はそれを一度晋助に渡そうとした。が、ふいと顔を背けられた。
目を丸くしたままの小太郎を気に留めず、晋助は手酌で猪口に口を付けている。小太郎にそれを注意する余裕はなかったようだ。
「上物なんだ、錆付かせるのは忍びねェ。きっちり手入れしてくれや」
酒を啜る晋助の横顔に、小太郎は言葉を失った。その言の葉の裏にある意味を理解したからだ。言うなればこの煙管は形見だ、そう本人から宣告された気がした。自らの死を予見した言動だと言うのに晋助は至って平静なままだった。小太郎には、彼のその強さが眩しくて苦しかった。
初夏の兆しが見え始めた頃、これから訪れよう季節の似合う男が小太郎の居候する屋敷を訪れた。坂本辰馬だ。予定していたより幾分か遅れてしまった帰還に、彼は柄にもなく急いていた。地球を宇宙に向けより開いていく辰馬のような活動をよく思わない者達の動きが活発化しているようなのだ、いらん妨害を受けた。
「ヅラ、戻ったきに!」
「坂本…良かった」
ほっと安堵の息を漏らした小太郎に釣られて辰馬も胸を撫で下ろした。大丈夫、まだ間に合ったようだ。
再会の挨拶も早々に、庭の見える奥の部屋に通された。小太郎は所用をすませに一時別室に姿を消してしまった。しばし二人きりの邂逅になる。
蒲団に臥せった部屋の主は辰馬を見据えると、幾度か瞬きをして緩慢な動作で体を起こした。ほんの一月前に比べてもひどくやつれたように見える、だが人の悪い笑みはそのままだ。
「…もうてめえの面見ることもないかと思ったんだがなァ」
「酷いぜよ高杉!…大丈夫がか?寝てていいきに」
「いらねえ気を回すな、自分で決めら…っごほ!うっ、ぇほっ…!」
「言わんこっちゃないき!」
晋助は慌てる辰馬を見てはからからと寒々しく笑うばかりだ。だが流石に喀血を伴う咳に、そそくさと身体を横たえた。宥めるように背中を撫でてやれば、晋助は大人しくそれに従う。胸元を押さえる手にはいたく力が籠もっていて、病状の深刻さが見てとれた。
「ははっ…てめえは死神みてえだ、坂本ォ…気ぃ抜けちまった、もうすぐだ、もう…」
「…何を、言いゆう」
晋助はくつくつと笑うばかりだ。開き直ったように、やけに晴れ晴れとしている。実際のところ、辰馬を待つのに集中して命の炎を燃やしていた節があったのかもしれない。辰馬が何度真っ赤になった口を拭ってやっても、またすぐに咽せてしまってきりがない。
「…桂にゃ、銀時のこと言わねーのか…」
「言わん。銀時の意志じゃ、万事屋の坊らを巻き込みとうないらしい」
「だから、あいつは…あめえんだよ…」
「おまんが鬼兵隊を宇宙に置いてきたのと同じことちや」
晋助はちっと露骨に舌打ちをした。気持ちが分かってしまったのだろう、自分に嫌気がしたのか、はたまた懐かしい名前に思いを巡らせているのだろうか。
しばらく晋助は押し黙っていた。そうして、穏やかな風情で目を閉じた。
「…坂本ォ」
「何ぜよ」
「酒が、飲みてえ…桂も呼んでよ…」
「…待っちょれ」
不意に晋助は甘える童子のような声を上げた、かなり擦れてはいたが辰馬に意図を伝えるには十分すぎた。
「…銀、時も…四人で…」
小太郎を呼びに行く辰馬の背に、晋助の半ば息だけの声色が聞こえた気がした。
小太郎はひたすらに静かに辰馬の呼び掛けに応えた。淡々と、とっておきのがあるから先に行っていろとだけ溢して、本当に酒をとりに行ってしまった。
結局身体を起こしたものの、痛みに悶える晋助を撫でてやりながら、辰馬は小太郎を待った。5分足らずではあったが、永遠に感じる瞬間であった。
「待たせたな」
「こほっ…おせえ、ヅラ…」
「ヅラじゃない、桂だ」
晋助に冷静にそう返しながら、小太郎は盃を四つ並べた。丁寧に酒を注ぎ、塩漬けの桜の花弁を一枚一枚落とす。淡く桃色に揺らいで見える液体を渡され、晋助はゆうるりと笑みを浮かべた。
「…お前、に…しちゃ…悪く…ねえ…」
「昔からお前は桜に魅入られてたからな、高杉」
「いーい匂いぜよ、さ、呑むきに」
最早晋助は息も絶え絶えだ、身体を引き裂かれんばかりの痛みが絶えず走っているのだろう、額に汗も滲んでいる。それでも晋助は、笑っていた。
「…乾、杯…」
「乾杯」
「乾杯ぜよ!」
かつんと各々盃をぶつけて、そして庭寄りに置かれた一つの盃にも当ててかんと音をたてて、皆一気に飲み干した。取り留めの無い会話を楽しみながら、三人は酒を酌み交わした。時折一つ置かれた盃に口を付けては、酒を継ぎ足すこともあった。
がしゃん、と陶器が割れる音がした。晋助が盃を取り落としたのだ。彼はそれを拾おうとはしなかった、代わりにふらりと立ち上がり、軒先へ足を運んだ。
桜の木へ寄りかかって、晋助は空を見上げた。帰郷したその日と同じ、青い空だった。
「…地獄で…待って、ら…銀…時…」
晋助は銀時を信じていた、必ず彼が全てをやり遂げ地獄へ墜ちると信じていた。これは最大級の激励の言葉なのだ。
にぃと唇で弧を描いて、晋助はゆっくり瞳を閉じた。力が抜けた身体は、するりと桜の根元に崩れ落ちた。
かの高杉晋助も病魔には勝てなかった。彼がこの世を去って半年余りが過ぎようとしていた。
晋助の死は、思わぬ所にも影響をもたらした。彼を恐れ萎縮していた過激な攘夷浪士達の活動を活発化させたのだ。小太郎はしばしの沈黙を決め込んでいたが、直接的に矛先を向けられたのは辰馬だった。
今や、地球において辰馬ら開国推進派にとって安全な場所を探すのは困難な事になっていたのだ。陸奥には何度も止められた、地球へ立ち寄る回数を減らし物質の援助に留めよと。だが辰馬はほぼ毎月のように故郷を訪れていた。ターミナルにも足繁く通ったがあれ以降、銀時には会えていない。目下の地球での課題は、同士を探し政府との交渉を取り成すことだった。
その日は、雪もちらつく冬を迎えたひどく寒い日だった。坂本辰馬はまたも地球にいた。近江屋という店で、お偉い方と会談の予定があったのだ。今回も部下の制止を振り切ってきたわけだが、この頃の辰馬は特に何かに突き動かされるように働いていた。
「遅いのう…」
待ち時間になっても向こう方は現れない。だがその刹那、辰馬はひやりとした気配を感じた。誰かがいる、幕府の上層相手だからと言って油断していた自分に喝を入れる。護身用の銃を手に収めた、その時だった。
「っ…!?」
一斉に窓ガラスが割れた。結構な高さのある建物だったと辰馬は記憶していたが、そんなもの問題ないとばかりに雪景色に紛れる白い見覚えのある制服が視界を埋め尽くした。眼前に、黒髪をなびかせる細い影が躍り出た。
声も、出なかった。
一瞬で世界が赤に染まった。こんなにあっさりと逝ってしまうのかと嘆く暇も愛しい人に想いを馳せる暇も、痛みに喘ぐ暇さえもなかった。
まごうことなき事実だ、坂本辰馬は、暗殺された。
破られた窓から、冷たい雪が吹き込んでいた。容赦なく地に付した身体を白く染めていた。だが積もる端から赤に染まるばかりだった。
後に近江屋事件と名付けられるその惨状の現場を後にして、土方十四郎はため息を吐いた。現場証拠や諸々から犯人の目星はついていたが、手を出せないのだ。
坂本辰馬という男を失った。つまり地球は今一歩、衰退の側へ足を踏み出してしまったのだろう。
土方は重苦しい足取りで、以前彼と出会った近場をうろついていた。辰馬の遺体を調査したのは自分だ、一つ、気になる物を見つけた。これを託すべく、わざわざ私服で散策を繰り返す日々だ。
「おい、そこのロン毛」
不意に土方は視界に挟んだ人物を呼び止めた。緩く首を揺すった拍子に艶やかな黒髪が風を孕んで揺れる。一切光のささない暗い眼差しで男は顔を上げた。
「あんた、攘夷志士の桂に似てるって言われるこたないか。兄弟とか?」
「…人違い、では」
長年追ってきた土方が間違える訳はなかった。印象は随分と変わってしまったが、彼は桂小太郎その人に違いない。
「まあ構わねえ、とりあえず桂に渡す物を預かってるんだ。あんた、知ってんなら渡してくれよ」
「だから俺は知らぬと」
「頼んだ。ああそれと、悪いが中身は改めさせてもらったぜ」
土方は、小太郎の手に赤の滲んだ封筒を一つ握らせるとくるりと踵を返した。
「これ、は…!」
小太郎は慌ててそれを開くと、瞬時に文面を視界に入れそして、その場にくず折れた。目の前の男が真撰組の副長であることは気付いていたが、そんなことどうでもよかった。
『備えあれば憂い無しちや、これがおんしに渡るといいんだがのう。いいか、桂、生きろ。何があっても生き延びろ。きっと、なんとかなるき』
懐かしい声が小太郎の脳裏に響いた気がした。嬉しいのと同時に、現実を受け入れざるを得なかった。
坂本辰馬は、死んだのだ。
「…今日だけは見逃してやらあ、坂本に感謝するんだな」
そう吐き捨てると、土方であったろう男は姿を消した。
小太郎は一人、道の中央であることも忘れてただ呆然としていた。徐々に、実感が湧くのに伴い涙が込み上げる。身体が壊れてしまいそうで、自然と拳を握りしめ地を叩いていた。
「っあ…ああ、う…ああああああ!」
文字通り喉が枯れて声が出なくなるまで、小太郎は咆哮していた。