特に理由があるわけでも、何かに絶望しているわけでもない。


[レミング・ハート]


何の不満も不安もないのに突然「死にたい」なんて言ったら、やっぱり普通は驚くだろう。
というより、大概そんな人間はいない。
世の中の自殺者の数がどうとかそんなものに大して興味はないが、きっとそいつらには理由がある。
理由なき自殺願望。そんなものが存在するのかと聞かれそうだが、でも存在するのだ、そんな奴が。ここに。

例えば気持ちよく晴れた日の授業中。
窓から外を見ていると、無性に死にたくなる。
例えば友人とコーヒーなんか飲みながら談笑している真っ最中。
「死にたい」が突然ふと頭をよぎる。

「おまえバカだろう」

いつもの如くぽそりと「死にたい…」と呟く俺に、親友兼悪友は呆れ気味に言い放った。

「バカはないだろうバカは」
「バカ以外に何と言うんだバカ」

言われてみれば、確かにバカかもしれない。それは多分まともな思考だ。
それもそのはず、ついさっき珍しく手に入れたレアモノの学食特製とんかつ弁当を昼飯に、旨い旨いと無駄に誉めながら飲み込んだばかりなのだから。

ふと黙って、空を見上げる。
場所は屋上。
空は快晴。
絶好の飛び降り日和だ。

「……わーっバカ!!バカバカバカバカバカ!!何やってんだ馬鹿者っ!!」

フェンスに足をかけて身を乗り出して下を眺めていたら、親友兼悪友─名をアキラという─に怒鳴られた。
ついでに掴んで引き戻された。
…今はそんなつもりなどなかったのだが、誤解させてしまったようだ。

「死なないぞ俺は、少なくとも今は。…だからそんなにバカバカ言うなとゆーに」
「死にたいなんて言ったそばからそんな格好してたら誰だって誤解するだろザルバカ!!」

やたら荒い息をつきながら、今度は殴られた。けっこう痛い。
一瞬ザルバカが何なのか考えたが、……そうか「すくいようのないバカ」か。

「おまえねえ」

7の数字と星のついた四角い箱から煙草を一本取り出して、アキラが溜め息をつく。
ここは一応高校で、ついでにわりとその辺りの校則には厳しかったはずだが、アキラの喫煙癖は入学以来なのでもう見慣れた。
そしてこいつはやたらにそういう事を隠すのが上手い。一度として怪しまれてすらいないのが何よりの証拠だ。
だから今更注意もしないし、俺はこいつの真面目を装った不真面目さはわりあい嫌いじゃない。
ぶは、と盛大に煙を吐いて、唐突に質問を投げかけてきた。

「なんか不満でもあるわけ?俺とか学校とか今の社会とか」
「いいや別に」

なんだか至極在り来たりなことを聞かれた気がする。今まで聞いてこなかったというのに、何なんだ一体。
ついでに言わせてもらうなら、どうして俺はアキラに不満があるなんていう阿呆くさい理由で死にたくならなければならないのか。
いや、理由があるだけまだいいのだろうか。

「あーのーなあっ…」

カンノムシでも湧いたのか頭をばりばりかきむしって床に沈む。
くわえ煙草のままだ。

「制服が焦げるぞ」
「おう。熱かった」

言って、火傷したらしい右手をひらひらと振って見せる。
…言わんこっちゃない。
アキラより制服の心配をする辺り、やっぱり俺の思考は人とはズレているんだろう。

「おまえ、痛いのとか苦しいのとか好きか」

寝そべった態勢から唐突に起き上がったかと思えば、今度はそんな質問。
答えはノーだ。痛いのも苦しいのも御免だし、死ぬにしてもどうせ死ぬなら一瞬がいい。

「そんな訳がなかろうが」
「あー……うわもう、釈然としない!!」

またばりばりと頭をかきむしる。
禿げないか少し心配になってきた。

「釈然としなさすぎて禿げそうだ」

何気なく聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。
なんだそれは俺のせいか。断じて違うと否定できないくらいには、俺はアキラの友情を信頼している。

「あ、解った。あれだ、おまえはネズミだ」

また唐突に。
どうにもこいつの話運びが、付き合いが1年半になっても俺には理解できない。

「バカの次はネズミか。何が言いたいんだお前は」
「違う。いや違わないんだけど、そうじゃなくて」

言って、アキラは煙草の灰で床に直角に曲がった線を書き出した。

「こんなガケがあるだろ」
「あるかそんな直角のガケが」
「うるさいガケだと思え無理にでも。例えばだ例えば。…そんで、ネズミがいるだろ」

そう言って、今度は点を打つ。
何がしたいのか、さっぱり解らん。
とりあえずこの点がネズミを表しているらしい事だけは理解した。

「そのネズミがな、レミングっつーんだけど。そいつらが突然このガケからこう」

今度は点を直角の下に向かってぽつりぽつりと打っていく。

「飛び降りるわけよ」
「なんだそれは」
「さあ?」

二本目の煙草をくわえながらアキラは両手を広げてみせた。
到底解らない。

「自分で解らん話を持ち出すな」
「俺が解んないんじゃないって。専門家も解んないんだってさ」
「飛び降りる理由が?」
「そ。増えすぎたネズミの数減らすためだとかオスの度胸試しだとか言われてるみたいだけど、結局何も解ってないんだってさ」

理由もなく飛び降りるネズミと、理由もなく死にたがる俺。
ネズミの理由は解明されていないだけだが、なんとなく似ていなくもない気がする。

「だからー…その、あれだ、本能?…そんなもんなんじゃないの?」

フロイトのおっさんによれば人間みんな死の本能とかってのがあるらしいし、とアキラは笑う。
本能。
確かにそれなら説明がつく。…ような気がする。
無理矢理こじつけられているような気も、しないでもない。
ぴ、とまだ火の点いていない煙草を俺に向けて、さも名案を思いついたような仕種で頷きながらアキラは言う。

「よし、今日からおまえはレミングだ」
「何でそうなる」
「意味するところは死にたがり。直で言われるよりマシだと思え」
「納得いかん」

寧ろこんな説明で納得しろという方が無理だ。

「じゃあバカと比べてみたらいい」

どうやらこの悪友は、どうあっても今俺に妙なあだ名をつけたいらしい。

「解った、もうレミングでいい」

納得してやるしかない。
そうそう意志を曲げないヤツなのだというのは理解しているつもりだ。
バカと言われるよりは確かに聞こえはいいし、何より何となく響きだけは気に入った。
レミングの本能。…悪くない。

「んじゃ決まり」

アキラの返答と被さるように、昼休み終了5分前のチャイムが鳴る。
靴の先で煙草をもみ消して立ち上がりながら、でもな、とアキラが真剣な顔をした。

「人間にはな、死の本能の他に生の本能ってのも存在すんだ。俺なんかは生の本能の方が強いから死にたいとは思わないけど」

そこで言葉を切って、よっ、と親父くさく立ち上がる。

「逆のヤツだってやっぱいると思うわけよ、俺は。でも、」

吸い殻二本をゴミ袋に突っ込み、まだ座ったままの俺の前に屈み込む。

「おまえが死んだら俺は泣くぞ。みっともなく泣いてやる。そんでおまえと付き合ってたって言い触らしてホモになってやる」
「…ホモは御免だ」
「だったら死ぬな。死にたがっていいけど死んだらおまえはホモだ」
「冗談じゃない」

こいつの言葉は、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか解らないから怖い。
まだ死ぬつもりはないが、自殺でもした日には死後に俺の悪名を本当に立てかねない。
ゴミをまとめたアキラが、屋上のドアに向かって歩き出した。
のそのそと俺も後に続く。
何となくさっきの会話を思い出す。
そうしたら俺はなにが可笑しいのか笑えてしまって、それにつられてアキラまで笑い出した。
無意味に爆笑しながら廊下を歩く男二人。
何だかんだ、俺はこいつに救われているのかもしれない。
俺をバカだと言うのなら、ベクトルは違うだろうがアキラも大概にバカだ。
何せ、入学以来飽きもせずにずっとつるんでいる。
恥ずかしい上にホモの話題がまた浮き上がりそうだから言わないが、ありがとうなんだか好きだぞなんだかよく解らない感情をこいつに大してふと抱いた。

それ以来、俺は今まで程レミング・ハートにとりつかれていない。
レミング・ハートというのは俺の造語で、原因不明の死にたがりのことだ。
アキラの言葉のお陰なのか、レミング・ハートの原因がひとつ解ったからなのかは解らない。
だが死にたいと呟く回数は、確かに前より減った。…と思う。

「あー…コーヒーが旨い、死にたい…」
「このくそバカレミングが大仏にするぞ根性焼きで!!」

まだ厄介な感情は時々付き纏う。理由もなにも解らないまま、結局は何一つ解決していないのかもしれない。
それでも、こんな日常はまあ悪くない。
そう思う俺がいることだけは、確かだ。


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さっきので最後だと思ってたら肝心のレミングを送り忘れてたっていうね。