人はみな、
心のなかに原風景とでもいえるもんを持っているんじゃないかなあ、
と思っています。
どう言えばいいかなあ
ふとしたときに
おそらく子どもの頃の体験をもとに、
一片の記憶のきれはしが鮮やかに蘇ってくる
というか…
繰り返しそんな気持ちになる。
生れてから現在までの時間のなかに、
その体験があったからこそ
今があるんやと思うんやけど
それでも……
あの真っ赤な夕焼けを見ると
たまらなく寂しくなるのはなんやろな…
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ばあちゃん家は、山で囲まれたDo田舎で
冬は太陽の軌道がぐんと低くなるせいで、
10月までは山頂の右側に沈んでいた太陽が左に移り
東に山を背負(しょ)ってるせいもあって、
お天道さまの光が屋根に届くんは10時ぐらいになる。
山の間から斜めに射し込む太陽は、明るいだけでまだ薄く頼りなく
それでも日が射せば凍った地面にも白くゆらゆらと陽炎が立ち霜柱が溶けてゆく。
『ジャカジャカ、ジャリジャリ、グシャグシャ、』と
半分溶けた霜柱を踏んで歩くのがおもしろくて
あとで、こっ酷くオバちゃんに怒られることも忘れて夢中で踏んだ。
『あんたは、何べん、言(ゆ)ぅたら分かるのぉ!?』
『そんなに汚して、ほんまもお、、、』
『 靴、自分で洗いや、真っ黒やないの! 』
オバちゃんに何べんも金切り声で怒られても、
霜柱を踏んだ時の足の裏に伝わるグシャっと氷が潰れるあの感覚は堪えられへん。
こりん奴で、お小言が頭の上通り過ぎるのを待つ。
庭の裏手には山水が伏流水となった小さな泉があって
夏は冷たくて畑で採れた西瓜を冷やし農作業でほてった体をうるおした。
コップなど洒落たもんは置いてなくて喉が渇くとその水を手ですくって飲んだ。
小さな泉だったが深く、周りには水苔がびっしりと生えていてイモリが棲んでいた。
冬の水は思いのほか暖かく、泉の水をバケツに汲んで簡単な洗濯や靴を洗ったり、収穫した野菜の泥を落としたりした。
風呂の燃料は、ほとんど薪でガスは追い炊き用でめったに使わなかったけど
木で焚いた風呂は体の芯まで温もった。
薪をよく使う冬の夜、補充は言われなくてもしておくのが約束やのに明るいうちは遊ぶのに夢中で、真っ暗になってから慌てて薪を取りに行くはめになる。
薪小屋は母屋から少し離れた農作業小屋の裏手にあって、夜道は足元さえ見えないほどの”闇”だったが、懐中電灯などは持って行かず 長年の勘というか歩きなれた道だから目が慣れれば、木々の梢の輪郭とその間の星空が見えてくる。
とくに冴えた満月の夜には、夜行性の動物たちの行動も活発で、
突然「キッキッキキ・・・」と頭上からムササビの甲高い声が降ってくることがある。
一瞬「ドキッ」とするけれど、あの闇の木の上から私を覗いているムササビを思うと驚いたことが可笑しくなる。
冬の星はほんまに美しくて、”スバル”が空高く上がり
夏には南北に走っていた天の川が東西に横切って
学校で習ったばっかのカシオペア座のWもオリオン座もくっきり見える。
ときには無数の星が流れて
落ちるまでに願いごとをしたりもしたけど、それが叶ったかどうかは、内緒の話。
田舎の星空には天体望遠鏡なんかいらなくて
寒さに堪える強靭な装備と
足元も見えない”暗闇”と
きれいな澄んだ空気だけでOK。
人は灯(あかり)を得て夜の恐怖から開放されたと言うけど
それと引き換えに手離した能力や味わいは計りしれないんじゃないだろうか。
と思うこの頃である。
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あっ、願い事がたくさんある方は、田舎の星空がオススメです♪
願い事が叶いますように♪