5月5日 曇りのち雨
男にしたら柔らかい、薄桃色をした唇が触れたのはほんの一瞬。
しかも唇の端をぎりぎり掠めていくという、俺からしたらどうやったらそんな見事にずれることができるんだと思ってしまうぐらい、逆の意味で高度なテクを持ったへたくそなものだ。
…まぁ、俺からキスすることはあっても、こいつからキスしてくることなんて、滅多にねぇもんなァ。
だからへたくそなのにも納得できる。
前にこいつからしてくれたのっていつだっけ?と少し考えなければならないほどに、総悟からキスをしてくることなんて滅多にない。
それはキスだけじゃない――が。
総悟の性格は十分理解してるつもりだが、互いの気持ちを確かめあったときしか、総悟からの「好き」も聞いたことがないような気がする。
いや、気がするじゃなくて実際そうなんだけど。
だからこいつの口から言わせたいってもちろん思うし、物足りなく感じるときもあるけれど、それでも無理に問い詰めたりしないのは、総悟が必死こいて隠そうとしている俺への想いなんて本当はばればれだからだ。
「(…熟した苺みてぇ)」
眼下に組み敷いている総悟はきつく瞼を閉じて、耳も頬も唇も、それ以外の全部も熟した苺と同じ色をしている。
…どうりで甘いわけだ。
一瞬触れただけだというのに、思いのほか甘い味を残して行った総悟の唇。
みずみずしい苺と同じ色をした総悟が甘くないわけがない。
へたくそ、って笑ってやろうと思ったのに、これは…かなり困った。
たまに見せる表情が言葉よりも雄弁に、俺が好きだと伝えてくるから。
俺の上着をぎゅっと掴んで離さなかった総悟の手が離れてしまったのを合図に、俺は真っ赤な顔を隠すようにうつむいている総悟をただじっと見つめていた。
すると部屋の中に静けさが訪れる。
総悟の突然の行動に呆気に取られていたというのもあるけれど、しばしの間、総悟を見つめたまま黙り込んでいたら、俺と同じように黙り込んでいた総悟が徐に口を開いた。
「…こっちは、おまけでさァ」
突然何を言い出したのかと思えば。
落としていた視線を棚のほうに移動させた総悟の後を追って、俺もそちらに視線を動かした。
総悟が視線を移した棚の上には置時計がある。
時間のことなどいまさらどっちでも良かったのだが、総悟につられたついでに時計を見ると、知らぬ間に零時を過ぎていた。
「(零時三分か…)」
今の時間を知りさえすれば時計には用がないので、俺はまた眼下にいる総悟に目を向ける。
…せっかく美味しい状況なのに、隙を見て逃げられても困るしな。
けれどその総悟はと言うと、未だにその置時計をじっと見つめているだけで、俺から逃げる素振りも見せない。
「(…時計に何かあるのか?)」
その視線がまるで、俺に何かを伝えたがっているように思えたので、俺もまたしばらく時計に目を向けていると…ふと思い出した。
…分かりにくいことしやがって。
こいつに期待したって無駄だって思いながら、それでも諦めきれず期待していたはずなのに、いざ貰うとなると、今日が何の日か忘れてしまうほどに動揺するとは。
けれど改めて考えてみれば、マヨネーズと見せかけたバスソープも、いたずら好きな総悟が選びそうな代物だし、総悟の行動をひとつひとつ順に追って行けば、自分の中のつじつまもすべて合う。
「おまけ…?」
静寂が包む副長室に、自分の声がやけに大きく響いた。
おまけって、総悟は何のことを言っているのだろう。
ひとり言のように呟いただけなのに、部屋もその周りも静かなこともあって、総悟の耳には俺が総悟に問い返したように聞こえたのだろう。
「だ、だからっ、グ○コのおまけと同じだって、言ってるんでさァ。
こっちがおまけで、あっちが……んっ、」
普段の様子からは想像も付かないほど、真っ赤な顔をした総悟が必死になって言葉を紡ぎ出しているのを見て、俺はとうとう我慢の限界に達した。
総悟の顎を掴んで、時計から俺のほうへと向かせると、総悟に抗議の声をあげられる前に、可愛らしいことを吐く薄桃色の唇を自分の口で塞ぎこむ。
「お前、可愛すぎだよ」
…こっちがおまけだって?
馬鹿言うな。
どう考えても向こうのほうがおまけだろう。
息ができないと怒ってくる前に、すぐに唇は離してやったけれど、恥ずかしそうな顔をした総悟が俺以外に目を向けるのはどうしても許せなくて、顎を固定した手をそのままにしていると、とうとう総悟が俺を睨みつけてくる。
けれどうっすら涙を浮かべた瞳で睨まれたって可愛いだけで、そんな総悟に俺は薄く笑い、総悟が文句を吐こうと口を開いた隙を見て、今度は口の中に舌を忍び込ませる。
「んっ、」
俺にしか聞かせない総悟の、甘い声が耳に届く。
それだけで俺の心が満たされて行くような気がした。
最初は舌を奥に引っ込めて、逃げ惑っていただけの総悟も今は慣れないながらも必死に俺の舌に絡ませようとしている。
上手とはとても言えないキスだけど、こんな拙いキスでも俺を煽るには十分だった。
「総悟、」
名を呼んだことで、互いを繋ぐ透明な糸が切れる。
総悟の額から指を差し入れて髪を溶いてやっても、総悟の反応が今ひとつない。
どうやらキスだけでくったりと身体の力が抜けてしまったようだ。
「…?」
不思議そうにぼんやり見つめ返してくる瞳に、俺は右頬に軽くキスを落とし、そして白い耳元に唇を寄せた。
「だっ、だから…、こっちは…おまけだって言ってるだろィ?
それにおまけはひとつだけですぜ」
耳元に熱の帯びた低い声で囁いてやったら、総悟の耳が、顔が一瞬で赤に染まり、急いで俺から顔を逸らした。
…いまさら顔を逸らしたって遅ぇよ。
「今のじゃおまけにも入んねぇよ。しかも唇の端じゃねぇか。
それにひとつだけって言うならあっちがおまけになるだろ。
上手なちゅーの仕方を俺が教えてやるから、その分だけお前も俺に付き合えよ」
偽マヨのほうを指さしながら言ったら、それ以上総悟は何も言わなかった。
総悟が顔を逸らしたことによって、丸見えになった右耳が目に入ってしまい、俺は吸い寄せられるようにそこに唇を寄せた。
そして唇を右耳から徐々に下へと滑らせて行き、細い首筋と吸ってくれと言わんばかりの鎖骨に、一箇所ずつ俺のものだという所有印を残す。
「ん、…誰もちゅーの練習がしたいなんて言ってやせん」
さっきまでの可愛さはどこへ行ったのやら。
はぁ、とため息を吐いたけれど、憎まれ口を叩く態度すら可愛いと思ってしまっている俺もたいがい、行くとこまで行ってしまっている。
総悟の態度に対してため息を吐いたつもりが、気付けば自分自身になっていた。
「そもそもお前があんな可愛いことするからだろ。
据え膳食わぬは男の恥って言うじゃねぇか」
それさえなけりゃあ、もう少しは我慢できた…はず。
…総悟を目の前にしたら無駄だってことを本人には黙っておいて。
「…スエゼン、ってなんですかィ?」
総悟がきょとんとしているので何かと思えば、小さな口から零れた言葉に俺は少し目を見開く。
馬鹿な子ほど可愛いって言うが…本当だな。
「……お前のことだよ」
さっそく総悟の唇に口付けて、上手なちゅーの仕方を教えてやる。
俺にいたずらをするときだけ賢くなる頭も考えものだが、空っぽ過ぎるのも考えものだな、と思いながら。
保健だけは俺が教えてやるから他の奴には頼るなよ。
* * *
おそらくこのあとは土方先生の保健のお勉強タイムに入ってるかと。