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Miyuki【26】

NHK朝ドラ『マッサン』の主題歌『麦の唄』から始まって怒涛のリリース、夜会、それに加えて紅白歌合戦に出場というニュースまで入ってきて、この年末はみゆきさんに浸りきることになりそうです。
もしかしたらもう夜会を観たという方がいらっしゃったりするかもしれませんね。


『麦の唄』本当にいい歌ですね。
わたしの故郷、今後何らかのきっかけで増えていくこともあるかもしれませんが、きっとひとつひとつが自分の中で生き続けるのだと思います。
ときには気づかない場所で、孤独になった自分を励ましてくれることもあると思う。

今までわたしが関わってきた人々…その全ての人との交流が、何ひとつとして欠けることなく自分に染み渡って、わたしという名の人間を形作っています。
いい思い出ばかりじゃありませんでした。泣きもしましたし、怒りもしました。
今、大切に思っている人がいますが、その人とでさえ心の行き交いが全てぴたりと心地よく収まることばかりではありませんでした。

でも、長い目で見れば、それらがひとつの形に結びついていくのが見えるのです。
いいことも、そうでないことも、全部。
きれいな言葉で言ってしまえば『思い出』だとも『経験』だとも言えるでしょうが、なんだかそれだけではないように感じることもあります。
自分が今あるのはそれらの心の行き交いや吸収したもののおかげであり、ひとつ欠けても『わたし』ではなくなるってことだと思うのです。

故郷を離れることがあったとしても、故郷から受け取った『わたしに染み付いてわたしの一部となったもの』は、そう簡単に無くなるものではない…
新しい場所からは新しく自分の中に入ってくるものがあり、今までの自分と混じり合って自分というものが『複雑かつ深いもの』になるだけだってことに『麦の唄』で気付けたのかもしれません。

Miyuki【25】

SONGSの特集がみゆきさんの『時代』でしたね。
映像も内容もなかなかよかったように思います。

その曲その曲で詞の内容についての思い入れは色々あると思うし 、メロディーもそれに見合うように悩んでは作りを繰り返しただろうし、歌うときにその作ったきっかけになった出来事や考えなどの思いがこもるのはシンガーソングライターならば当たり前のことだと思う。
今まで生きてきた人生や、そこでめぐり合った出来事、支えにしてきた思想や感情を詞や曲にするならば、自然と自分にとって影響の強かった『もの』や『表現』が前面に出てくるものでしょう。
それらをまったく含まない作品はできやしないはず。 
そのあたりが『シンガーソングライターの個性』が感じられる所以だし。

受け取るのは自由だし、受け取り方は無限にある、ってのはみゆきさん自身何度も言っていますが…。
掘り下げてみたらこんなきっかけでできた曲だった…などその背景がわかったとしても、それが何だというのでしょうね。
『それだけにしか思えない』って思ってしまうのはほかならぬ自分自身だし、自分らしく自由に自分の思いと重ねて受け取れる器を持とうと思えば持てるのも自分自身です。
その意味で取りなさいと強制されてるわけでもなし。
そう、強制されてるわけじゃないんです。
期待はずれとがっかりしたり、つまらないとなじったりする理由はないと思うのです。
自分で支えにしたいと思う部分があれば、自分らしく自由に受け取って支えにすればいいんじゃない。
そしてその思いは同じように、自分の中であたためておいて他者に強制しなければいいんです。

わたしは前から言っているけれども、曲が作られた背景などにはまったく興味はないのです。
掘り下げようとも、裏話を探ろうとも思わない。
みゆきさんが公ではない場所であたためている『何か』についても、公にされた作品から感じたものしか受け取らないつもりでいます。

みゆきさんのプライベート(生活だけではなくいわゆる何らかの絆)に踏み込みたくはなく、ただ、その曲の表現の細やかさやそこに生きている人間の息遣い、みゆきさんらしさに惹かれているだけなので。 


…無で歌える日は来るかな…

みゆきさんはSONGSでそう語っていましたが、やっぱり彼女も人間なのですよね〜。
感情雑念入ってもいいじゃないのと、ちょっと思ってしまったり。 (笑)
今、そのときのみゆきさんだからこんなふうに歌えるってのがあるんじゃないの…つい最近に体験した出来事が新たにその曲に影響を与えたとか。
こうだから…とか言わないでも心持ちは伝わるものですよね。
『生きた人間』が歌うから、歌はそのつど形を幾種にも変えてどこかに届く可能性があるんじゃないかしら。 
そう思うんですけど。

Miyuki【24】

徒歩30分のエアポートウォークへ、歌旅劇場版を観に行った。
徒歩で行ける範囲なんだよね、追加された劇場は。
かなりラッキーだったとしか言えない。
だから、観に行く決心がついたんだよね。


やはり、大画面は心に響くね。
もちろん、ライブも観たし、DVDも持ってる。
でもさ、やっぱりちがうんだよね、銀幕は。

みゆきさんの表情、よかった。
お土産ことばも聞けた。
細かい服装や小物の様子もよくわかったし…音響も。

文さんのかっこよさも際立っていたような。(笑)


観れて、よかった。
貴重なチャンスだったからね。

荒野よりのフルプロモーションビデオも、短編映画並みで、泣けて仕方なかった。
展望デッキに避難したよ。(笑)

Miyuki【23】

夜会の記録をします。
『2/2』初演(DVD含む)をご覧になった方向けかもしれません。

***

今回の夜会vol.17『2/2』は再演という形ながらもがらりと雰囲気を変えた内容で、みゆきさんも『ずっと引っかかっていたことを伝えたいと思って今回新たなシーンをつけた結果、1から作り直しになった』とあいさつしてました。
内容的には小説や映画で表現した細かな場面も取り入れてあったと思います。
そうですね、梨花目線よりも圭目線の物語だったんではないでしょうか。
歌も圭から梨花へのメッセージとして使われてることが多かった気がします。

コビヤマさんが圭の役をやると聞いて『どうかな〜』と思っていた部分が吹っ飛ぶ感じでした。
『絵描き』のコビヤマさん、前回の夜会『今晩屋』を髣髴とさせるユニークさも持ち合わせていて中々はまり役でした。
わたしが見ていた位置からはコビヤマさんが描くみゆきさんの『スケッチ』も見えましたが、ちゃんと白紙の状態から描いていましたよ。
輪郭だけでも素敵な感じの絵でした。

みゆきさんの『豹変振り』も中々圧倒されましたが、着用している赤い衣装の胸の辺りを引き裂いたときは『ダメ〜』って言いそうになりましたね。(笑)
下着のレースのヒラヒラ・・・見えましたよ?危ないですよ?
アレはマジックテープなんでしょうかねえ。

圭が描いた赤い衣装の梨花の絵が、豹変した梨花によって白い浴衣の梨花の絵に変えられてしまうからくりもよく見えました。
絵が真ん中で上下半分に仕切られてるんですね。
本のようにパタンとめくるようになってたようです。

そうそう、ベトナムへ向けて旅立った梨花がその地に馴染み、竹の船に乗って『紅い河』を歌うシーン…
突然真ん前に(E列は前から3列目でした)ピンクのアオザイを着ているみゆきさんを乗せた船が下からせり上がってきたので、腰を抜かしそうになりました。(笑)
あ、ネタバレはあえて避けてたものですから…知らなかったんですよ。
めちゃくちゃに近すぎて本当に困りましたね。(汗)

今回は要である『二重人格』の表現の仕方が独特でしたね。
…独特かつ分かりやすかったのではないかな。
子どものころ、心無い大人の言葉を信じ込んでしまったため生まれてしまった梨花のゆがんだ『茉莉へのやさしさ』は朝顔の柄の白い浴衣を着た子どもの姿で表されていました。
それが梨花の中(鏡)に常に存在し、姉への慕情から梨花を幸せから遠ざけようと暴れる(操る)という形になってました。


最後にみゆきさんが付け加えたかったシーン。
それは子どものころ生み出してしまった『茉莉へのゆがんだやさしさ(白い浴衣の梨花)』を茉莉がなだめ開放し、梨花自身をも光のほうへ歩むよう導いたその後、その開放された子どものころの梨花が、母と茉莉のもとへ帰ってゆくというシーンです。

真ん中に洋風エプロンの母、向かって左にみゆきさん扮する子ども姿(おかっぱで朝顔柄の白い浴衣:梨花と一緒) が膝枕で身を寄せていて、手前に開放された子どもの梨花がいる。
茉莉が体を起こし『りかちゃ〜ん』と手招くと、梨花が駆けていって母の向かって右側に茉莉と同じ格好で膝枕する。
母は2人の頭をなぜる。
絵のごとく静止する…

素敵な情景でした。
絵のように。
おかっぱのみゆきさんもキュートでしたね〜。

こんな感じでしょうか。
くっきりはっきり舞台が見える、贅沢な席からの観覧…
この幸せを堪能できたことに感謝。

Miyuki【22】

みゆきさん話題はとある理由があってここにしか発散していないですが…(笑)


もちろんみゆきさんはそれなりに年を重ねてきているから表現の内容や方法など変わってきて当たり前だし、そこをなじっても批評しても残念がっても仕方ないと思う。
あれがよかったのに今はやらないとかできてないとか。

自分の身を振り返ってみればわからないだろうか。
感性や、影響されたものや、基本的なスタンスとしてあらたに組み込んだものや、視点・視野。

全く変わらないって人は成長がない証拠でしょう。
年を無駄に費やしただけだった証拠でしょう。

今は理解できないなにかが、年を重ねた後に理解できるかもしれないならワクワクしないだろうか。


それを先に行く人がみゆきさんのような気がして
背中を見ていたくなる


みゆきさんが何を考えて、何を根拠にして作品を作り表現しているのかは実際どうでもよくて。
大切なのは結果としてみゆきさんがその世界を見てわたしたちに伝えようとした事実だけだと思う。
裏はいい。
もっと言うなら宗教とかはほんとにどうでもいい。

思想生活全部含めたみゆきさんを分析する気はさらさらない。
一人の女性、それでいい。
作品に固定観念や発信者からのメッセージと銘打ってイメージを無理につけるのはみゆきさんではなく受け手の問題だと思うから。
確かに何かがあって作った作品ではあるだろうけど、無理に詮索してるのは受け手だ。
ガチガチに固めているのは受け手だ。

そんなことみゆきさんは望んでないって当の昔に言ってるものね?
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…・*記念日*・…
"中島みゆき"誕生:75/09/25
管理人誕生:**/08/12
あやずるーむ誕生:02/11/04
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