話題:創作小説
すこし暴力的な表現があります。
苦手な方はご注意ください。
いつもと変わらない夕暮れだった。
窓の隙間からぴゅうぴゅうと風が吹き込む。短い春と夏は過ごしやすいが、そのぶん秋から冬に掛けては地獄なのがこの国だ。徐々に早まってきた日没が完了するまで、あと半分の猶予があった。
「……おい」
「言われなくたって、わかってるよ」
朽ちかけた板の台(ベッドとは呼べない代物だ)の上で、ところどころ穴の空いた毛布にくるまった“片割れ”が、思いの外しゃんとした声で返事をした。
すっぽり頭まで覆ったままいっこうに顔を出そうとはしないが、意識のほうはしっかりしているらしい。
子供の成長とは早いものだ、と、自分だってまだふっくらとまろい頬をしているのに、兄は感慨もひとしおであった。
弟のなまっちろい指先が、くい、とぼろ布の端にかかる。
ものぐさに急ごしらえの巣穴から覗いた目玉は、どんぐりのように円い。色は青で兄とお揃いだが、玲瓏たるそれとはまるで違っている。
「………」
「そんな顔すんなよ。ほら、うまいもの買ってきてやったぜ。食えよ、な」
食事をするスペースとして区切られた一角に無造作に置かれた紙袋のなかから、パンや腸詰めを出してやる。町一番の店にわざわざ並んでまで買ってきたのだ。見たこともない、名前も知らない、いかにも高価で食欲をそそる食べ物の群れを前に、うんうん唸りながらひとつずつ選んできたのである。
しかし、兄の思いとは裏腹に、弟の表情はより一層曇っていった。
弟の好物のリンゴの焼き菓子だって買ってきたのに。
「……にいちゃん、行ってきたの」
高い声が、ほとんど断定する形で問いただした。
兄は、一瞬怯んでから口を開いた。
「お前には関係ねぇよ。そら、このパンなんて、焼きたてで火傷しそうな位ホカホカだぜ。火がねえから牛乳は温められないが、これと一緒なら体を冷やさずにすむだろ」
「そんなのいらない」
「レオ」
「いやだよ……そんな、誰かをころして受け取ったお金で買ったものなんて!」
ぜえぜえと息を切らして絶叫した。弟はここ数週間、昼と夜の寒暖差にやられて臥せっていたのだ。
普段はガラクタ拾いや身なりのよい大人だけを標的にしたスリで糊口を凌いでいたが、どれも二人で働いてようやくの稼ぎだった。そこに来て、弟の長引く不調、めっきり減った実入りである。もとから筋がいいと声を掛けられていた兄は、とうとう扉をたたいてしまった。もっと幼い頃、兄弟で結んだ取り決めを破ってまで。
「にいちゃん、言ってただろ! おれたちはあいつらみたいにならないって! 約束したよね!?」
「……これ一回きりだよ。もうしねえ」
「それを決めるのは、にいちゃんじゃないよ! にいちゃんに“やらせた”奴らは汚いことを平気でするんだ。にいちゃんが嫌だって言ったら脅してくるよ。にいちゃんにひどいことをするって言うかもしれないし、おれを人質にすることもある」
「っ……」
「にいちゃん、なんで……なんでこんなことしたんだよ!! おれたち二人で生きていこうって……とうさんやかあさんみたいにならないようにしようって、ずっと約束してたのに!」
弟は色を失った顔で拳を強く握った。
兄の蒼眼が不安げに揺れる。
この兄弟は、しっかり者の兄とのろまな弟と思われがちだが、その実、精神面では兄が弟に引っ張られていた。
金と麻薬のためならどんな依頼でも引き受ける父親と、父親のもたらす堕落に溺れた母親のもとから逃げようと言い出したのも、弟だった。
兄は弟に守られた。だからこれからは弟を自分が守ってやるのだ。と、兄は心に誓っていたのだ。
「……この町のひとが誰も知らないところに行かないと」
「でも、お前、体が」
「こんなの大丈夫………ぐ、あッ」
ゴポッ、と吐き出した。赤いものだ。鉄臭い、おびただしい……
「レオっ!」
兄は毛布を真っ赤に染めた弟に駆け寄った。その時、おそろしく優しげなノック音が響いた。
“ねぐら”としているこの放棄された納屋の戸口は、今にも崩れそうな軋み方をしている。
「シモン。いるんだろう。弟さんも一緒かな?」
耳に甘やかな低音は、じわじわと身を灼く毒に似ていた。
弟はまた何度か血を吐いた。苦しげな咳は戸口の男にも聞こえているだろう。
シモンは弟の背中をさすることしかできなかった。
どうか、このぬくもりだけは奪わないでくれ、と祈りながら。