スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

過去の恋は常備薬

話題:恋愛

すきだったひとに会いたいのは、今よりも若くて責任の少ない頃に戻りたいとセットになっている。むしろ、そっちのほうが目的で、すきなだったひとはついで感覚にちかい。発作のように思い出すということは、その発作的な衝動が起こらないかぎりは過去の産物くらいのすきだったドラマでもみるように記憶を再生させなつかしむだけ。会ったらなにかが変わるのかって期待しながら、それが現実になり面倒なことが起きることもおそれている。結局は、会わなくなったことを最後にしとくほうがいいのであろう。それにほんとうに会うべきなのであれば、その機会が巡ってくるような気がする。現状、休みや距離的な問題で簡単に会いにいけるわけではないし、お金や時間をかけてまで会いにいくべきなのかと思うところもある。それに、そもそも連絡先を知らない(相手だけがあたしの番号を知っている)関係ってどうなんだろうという問題。都合のいい女になっている時間はない。それなら、目の前の彼や新たな出会いに時間をかけるべきなのであろう。よわったときには過去の恋が薬になる。それくらいでいいのかもしれない。



林真理子のエッセイのなかに「結婚する相手というのは、もう駆け引きをしなくてもいい。駆け引きをしなくて済むというのは、なんともいえない安らぎと幸福を女にもたらしてくれるものだ。結婚したとたん、男と女の駆け引きというよりも、家の中の権力闘争になっていく」ということばに結婚の真意みたいのを感じ、権力闘争に笑ってしまった。林真理子のエッセイは、マリコ節が炸裂していてどれもたのしく読めるからすきだ。ふしぎと力が湧いてきて過去よりも今を生きようなんて思ったりして、マリコ節万歳である。

想い出の蓋

話題:忘れられない人

発作のように思い出す、そんなひとがいる。実ることのない恋だから一方的におわらせた。まだまだ未熟な20歳前後のあたしには実らない恋を持続させる余裕もなければ、意義を見いだすこともできなかった。今だって、そんな恋を優先させるようなことはできないけれど、うまく持続させることはできるような気がする。何段かは大人の階段を上ったのかもしれない、そんな気がした。

時間にすれば、1年も満たない恋なのに離れてから6年余りを経てもなお覚えているのは、すきだからという安直な理由ばかりではなく、美化された記憶は改ざんのようでもあり、安定剤のように拠りどころにしていたり、すきという気持ちが伝わり、すきだったという気持ちが残像のようにきえることがなくリフレインのように鳴り響いているから。どのくらい好かれていたかに比例する記憶の量。いつまでも残っている記憶が意味するのは、想いの質量。

会いに行きたいと思うこともあった数年だけれど、行動を起こすことはなかった。今さらという思いと彼にわるいというもっともな理由。理性とモラルが訴える、過去の恋だよと。何度も胸にしまっても彼が風俗や夜遊びをするたびに開けてしまう。それは言い訳にすぎず、もっと早く会いに行っていればよかったと後悔する。友人に相談すれば、正論を言うならば会いに行くのはやめたほうがいいけれど、友人として言うのなら後悔するくらいならどんなことが起ころうと会いに行くべきだと。

今年で27歳になるのにこんな気持ちをもやもやと抱えているくらいなら気持ちに終止符を打ちに行くべきなのかもしれない。あの日あのときのあたしたちに。前に進まないといけない。過去の恋も今の恋も。

あたしたちはまだ独身なんだよと友人が言った。まだのところを強調して。今の彼との将来があるのかないのかも見極めないといけないし、選択していかないといけない。泣いても笑っても人生は一度きりで、どう生きたいかはなんとなくで進むこともなく、決断していくことでしか方向性を決められない。ねえ、あたしたちの未来はどうなってるの?どうなるの?相手任せにしてはいけない。時間は有限、戻ることはない。先へしか進まない。

せつなくていとしくて

話題:ひとりごと

あたしは、ふつうのひとよりもドラマやアニメ、映画を観たり、本を読んだりしていると思う。ふつうのひとが友だちと遊んだり、勉強したり、出かけたりする時間を最低限におさえて、生活の一部としてそれらを組み込んでいるがゆえに。フィクションの世界に魅力されつづけ、当たりまえのように触れている。

本やドラマ、映画の感想を書くアプリに記録を残し、触れたことないものをせっせとさがす。図書館や本屋に、レンタルショップや有料配信サイトに作品は山のようにあり、そのなかから見つけだす自分のすきなものを。それはあてもない旅のような途方もなさと同時に、感動や共感、感情を揺れ動かすなにかに出会える瞬間をもたらす。


映画化もされた「生きてるだけで、愛」。映画を観てから原作を読んだ。原作があることを知らず、本谷さんの作品だとも知らず。(すきなくせにリサーチすることはしないから点と点がつながるのが遅く、タイムラグを生じさせながら出会った)原作とは多少の設定はちがえど映画を観てから読んだことで、読みやすかった。津奈木が菅田将暉であったこと、寧子が趣里であったことはまちがいない配役のように思えた。原作でも映画でも印象的だった、寧子の「あんたが別れたかったら別れてもいいけど、あたしはさ、あたしと別れられないんだよね一生」というセリフと津奈木の「でもお前のこと、本当はちゃんと分かりたかったよ」というセリフがとてもすきで、タイトルの通りの意味を表し、愛を感じた。あたしは、寧子の気持ちがわかってしまう。そんな寧子に振り回されている津奈木の気持ちも。何年か前のあたしと彼のように思えて、他人事には感じない。ここまでの激しさはなくとも、自分とおなじように疲れてほしいと寧子のように思っていた。自分とおなじくらいの力でぶつかってほしいと。省エネのように寧子の求める返答だけを手短に答える津奈木の気持ちもわかるし、それにイラつく寧子の気持ちもわかる。このふたりは、昔のあたしたちに似ていた。彼と一緒に映画を観ていたとき、彼はなにを思っていたんだろう。彼は、寧子の気持ちがリアルすぎて、今の俺にはつらいとたしか言っていた。俺たちみたいだねと言わなかった。今のあたしたちは、彼が寧子であたしが津奈木だ。ふたりともが衝動的で感情的だったなら一緒にいることはできないだろう。ああ、こうやって、役割みたいなものが入れ替わったりしながら、あたしたちはきょうまでやってきた、これたのだろう。ふつうになりたい、ふつうで在りたいだけなのにそれがむづかしく、泣いては墜ちて、衝突しては重なって、苦しみのすべてを理解することはできなくても、わかってあげたいと思ったり、思ってくれるならあたしたちは一緒にいるべきなのだと思った。

本谷さんの作品は、いつもどこかぶっ飛んでいて、それは彼女が劇作家だということもあるのかもしれないけれど、小説という世界から離れているような世界観を持ち、大抵が共感することも理解することもむづかしい。そのなかのほんのすこしはわかって、そのほんのすこしが読みたくて読んでいる。「生きてるだけで、愛」は、本谷さんのなかでも今まで読んできた本のなかでも上位に君臨するくらいによかった。

答えはまだみつからない

話題:本日の恋心模様

恋する気持ちはわすれてしまっても、愛する気持ちはおぼえてる。ときめきやドキドキは色褪せてしまっても、たのしさやワクワクは彩られる。つらさやかなしみは、いつまでもチクリチクリと痛みを感じさせ、経験値を微力ながらに上げていく。さみしさとせつなさがごちゃ混ぜになる。帰りたい、一緒にいたい、一進一退の攻防戦が常にこころのなかでくりひろげられる。どこにいても、だれといても、ひとは孤独なのかもしれない。どんなに笑っていても、泣いていても、たのしくてもしあわせでもつらくても、孤独でひとりなのは変わらない。物理的にひとりでないというだけで。

恋をしたいとおもうことはないけれど、せつなくてくるしくて、会いたくて、抱きしめられたくてと衝動的におもうことはある。いくつもの夜があって、いくつもの思い出があって、会いたくなって会えなくて、知らなくて知りたくなくて。責任を持つことを知らない恋は簡単に破綻することも知らずに、すきだけをあふれさせ、すきだけしかなかった時代。頭で考えるよりも先に行動している。理由なんてあとづけで、ことばよりも先に触れている。電車を待ちわびていたホームも、待ち合わせ場所でみつける最愛を何度も再生させては、せつなさが込み上げて、もう一度だけとわがままを言いたくなった。叶わなかった恋はきれいに保存されてしまうからたちが悪い。それでも、今のあたしをつくるたいせつな一部となり、経験や学びをくれた。

地元から離れ、彼と暮らし、過去の恋は遠い場所に置いてきたようにおもっていた。けれど、それはまちがいでフラッシュバッグするたびに、帰りたいとおもう弱いこころをなだめる。思い描いていた未来とはちがう人生を生きている。まだまだ、受け入れ体制は万全じゃない。地元のひとと結婚し、地元で働き、生活をしていると当たり前のようにおもっていた。今もなお、彼の地元で暮らすことに違和感をいだくことはあるけれど、彼と一緒にいたい気持ちにうそがないのも事実でその矛盾がすきゆえなのだとおもう。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2019年08月 >>
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
アーカイブ
カテゴリー