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極刑=死刑という考え方を私たち一般人はどうとらえるべきなのか




光市母子殺害事件の裁判が結審し、被告人の死刑が確定した。本村洋さんの十三年にもおよぶ苦悩に思いを馳せるとともに、終始理性的であったことに敬意を表する。


「遺族として今回の判断には満足だが、うれしいとか喜ばしいといった感情は一切ない。」

本村さんのこのことばを私たちは深く理解すべきだ。

なぜならば、本村さんは被告人に対して、゛極刑を望む゛と言い、決して゛死刑を望む゛とは言ってはいないからだ。


確かに初期の頃、テレビ番組出演で感情的になってかなり過激なことを述べたり、被告人に死刑を求めたこともあった。しかし、後に当時のことを振り返り反省し、訂正していた。


つまり、日本国の現在の刑法における極刑=死刑だから、間接的に死刑を望むという考えを本村さんは示したということだ。


このような単なる応報感情ではない形で死刑を求めるという考え方を一般市民である本村さんが私たち一般市民に理解できるように示したという点で、私は本村さんに敬意を表したいのだ。


一方で、一連のこの事件の裁判において被告人に対して極刑=死刑が課せられことになったことは望ましいとは思うが、現刑法における極刑=死刑が望ましいかどうかの評価は別問題ととらえるべきだと思う。


現在、世界の70%の国で死刑は廃止されている。これは被告人の人権が尊重され過ぎているためでも、アムネスティの影響力が大きいためでもない。(そういう理由も多少はあるかもしれないが、それ以上に)国民が国家や国家権力に対して100%の信頼が持てないためだ。

翻って、現在の日本において司法に、検察に、100%の信頼ができるのだろうか?「三権分立」などという言葉があるが、例えば今、これだけ政治(行政)という「国家権力」に対する不信が高まっているのに、「司法」という別の「国家権力」を信じることができるだろうか?


私は死刑制度に賛成でも反対でもなく、定められた法に従うのみ、という考えであるが、今後死刑制度に賛成と主張する人には、日本の司法が100%正しく信頼に価するものだ、という証拠を示してほしいし、示せないのであれば、「死刑制度に賛成」と言う資格はないと思う。

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