話題:恋人との将来

世代でしょうか、フルーツバスケットは原作を読んでいるので完全新作アニメに多少の抵抗はあったものの、いざ観てしまえば懐かしさがこみ上げ、抵抗はやわらかく溶けてしまった。毎週ではなくても、何週に1回はせつなさで泣いてしまう。原作のなかでも印象的且つ泣いてしまう猫憑きのもうひとつの姿の話をアニメで観るのは予想以上に破壊力があり、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。夾のもうひとつの姿さえも透は向き合ってくれる。夾の母のように無理に愛さなくてもよかったのだ。愛で誤魔化さず、こわいものはこわいと認めた上で一緒にいたいと。何度も裏切られ、こわれてしまった夾を癒し、ぬるま湯のようなあたたかさで抱きしめてほしい。

この話は、自分の恋愛にも通じるものがある。上辺だけ取り繕った部分だけを愛しても仕方なく、大事なのはこういうもうひとつの姿をどう受け入れるか、向き合うか。臭いものにふたをしても、都合いいことだけ並べるのも限界はある。ありのままを愛すということは、根気や体力がいる。きれいごとだけでは成立しない。例え、間違っていたとしても、世界から否定されたとしてもたったひとりの味方になれるくらいの勇気があればいい。大事にしたい、そばにいてほしいという願いは覚悟の上でしか成り立たない。いいとこ取りの恋愛は、張りぼてでしかなく簡単にこわれてしまうのだから。

だれかの左手の薬指に嵌められた指輪をみるたびに思う。若いひとは結婚しないと世間で言われていても、しているひとを意外と知っている。ああ、このひとは左手の薬指に指輪を渡し、生涯を共にしたいひとに出会えたのかと。あたしの左手の薬指にはなにも嵌められていない。指輪などもらったことがない。出会ってから5年くらいの歳月が経っていても、彼の地元で2年暮らしても変化などなく、あたしたちはずっと恋人という枠からはみ出さない。ねえ、なにを考えてるの?どこに向かってるの?まるで、あたしたちは行き先を見失った迷子のよう。どこにも行けず立ち尽くしているだけで何年も経ってしまったのではないかと考えるとこわくなった。意味なんていくらでも後付けできる、きのうのコピーのような日々を繰り返しているだけでは、エンドレスコピーな毎日になってしまう。いやだな、そんな日々。あたしも左手の薬指に指輪を嵌めてみたい。だれかのいちばん好きになってみたい。結婚したい、つよく思った。
その背景には、昨夜の喧嘩でも言われた、他の男をさがしたほうがいいという言葉が関係しているのはたしかである。あたしたちはなにをしているんだろう。一緒に暮らしているのに、おなじ方向を向いてない。方向転換できるかな?一緒に歩いて行けるかな?そんなことをひとりで考える。ひとりで考えてていいのかもわからずに、きょうも口を聞くことがないことに悲しさをおぼえた。