「お疲れ様、ツェリ。首尾はどうだったかしら?」
姉上の執務室に辿り着いた頃には、私も漸く平静を取り戻していたのだが、他ならぬ姉上自身にそれをぶち壊されたのだった。
「……あの、姉上」
「あら、どうしたのツェリったら。凄く疲れた顔をしてるわよぉ?」
「ああもう理由は分かってるんでしょうがっ! その名で、私を、呼ばないで下さいっ!!!」
私をおちょくって楽しもうという魂胆か。くすくす、と嫣然と微笑む姿からは余裕しか感じられない。全く、我が姉ながら物凄くイイ性格をしている。
ツェリ。それは私のファーストネームであるツェツィーリエの愛称だ。そして私はその名で呼ばれるのが、反吐が出るほど大嫌いだったりする。忌々しいばあさんことシュレンドルフ家現当主と同じ名前だからだ。
故に私はフルネームを公式の場以外で用いることは殆ど無い。普段はミドルネームのユリウスを名乗り、周囲にもファーストネームを呼ぶことを固く禁じている……のだが、姉上はそんな事情などお構い無しでなのある。
これが姉上以外の人間であったらがっつり報復してやる所なのだが、私では絶対に姉上に勝てない。むしろ姉上に敵いそうな人間を私は知らない。権力、戦闘力、発言力その他諸々、どれを取っても姉上は色々と反則じみた存在なのだ。
その反則の権化たるアマーリエ姉上は尚も楽しそうにくすくすと笑っている。くそう覚えていろよ。
「うふふ、ごめんなさいね。それで、第8訓練施設の方はどうだったかしら?」
「ええ、姉上の予想したとおりでしたよ。ボスのコールウェル少佐はロクな仕事をしてません。訓練兵たちの精度は並以下、実戦に投入しようものなら確実に死者が出るでしょうね。
まず基礎体力からなっていないし、戦闘フォームもマニュアル通り或いはそれ以下の動きしか出来ていません。動体視力の方も鍛えた方がいいでしょう。私の動きにまるで付いて来られていませんでしたから。
まぁ詳細の方は後程報告書の方に書かせていただきます。一枚や二枚じゃ足りないでしょうけどね」
「あらあら、随分と困った事になってるわね。上司が無能だと、指揮下の兵士達も可哀想だわぁ」
あーあ。口にしちゃったよ姉上。私でも心の中で思うだけに留めていたのに。
「コールウェル少佐にはもうちょっと頑張って貰わないとねぇ。その辺りの采配は、私に任せておきなさいな」
「はい。頼りにしてますよ、姉上」
姉上の「もうちょっと」は常人には結構キツいものがある。周到に根回しし逃げ場を完全に塞いだ上で、じわりじわりとあのどアホを追い詰めていく心算なのだろう。どんな手段を取るのか想像すら出来ないが、いずれにせよ少佐にとっては悲劇以外の何物にもならないだろう。私にとっては喜劇だが。
まぁそれも自業自得だ、せいぜい頑張りたまえ無能少佐。
「で、姉上。私の今回の視察、本当は他にどんな目的があったんです。こんなつまらない任務の為に、わざわざ私を前線から呼び戻した訳では無いでしょう?」
「つまらない、なんて随分な言い草ねぇ。でも貴方の言う通り、別の目的があったのは確かよ」
「その別の目的、とは?」
「昨夜、ジギーロストから連絡が入ったの。……『花の娘』が、いよいよ動くわ」
『花の娘』。その名を耳にした瞬間、戦慄が全身を奔るのを感じた。
シュレンドルフ家が極秘で進めているプロジェクト。軍部にも内密にされているその計画の、キーパーソンたる少女のコードネームだ。
本名は私にも知らされていない。私が知るのはジギーロストの孤児院に住む、とある特殊な血脈を汲む若い娘で、コードネームの表す通り花を好んでいる、といった程度か。容姿、経歴、性格に至るまで基本的な個人情報は伏せられている。
そしてシュレンドルフの『計画』の目的の一つが、『花の娘』を憎き黒十字の魔の手から守り抜くという事だった。しかし。
「動く……遂に出奔、という事ですか」
「ええ。明日の一番の列車で、孤児院を出立する心算らしいわ」
守る側としてはジギーロストの孤児院で大人しくしてくれれば言う事は無いのだが、このお姫様は何を思ったか、浄化派の傭兵になりたいと言い出しているようなのだ。
近いうちに出奔する可能性もあると姉上は踏んでいたが、まさかこんなに早く動くとは。その決断力と行動力は賞賛に値するが、保護する側にしてみれば正直な所迷惑な話である。
故にこの時、私が『花の娘』に対して抱いていた印象は「我儘なお姫様」というものだった。こちらも私が大いに苦手とするタイプだ。
「それで、そのお姫様にアテはあるんですか。まさか行き当たりばったりではないでしょうね」
「そのまさか、よ。最初は彼女の生まれ故郷である、ユーリピナ州を目指す心算だったみたいだけど」
「ユーリピナ、ですか。世間知らずのお姫様が向かうには、些か治安が悪い場所ですね」
「この首都ノースタウン州に向かうよう、院長が何とか説得したそうよ。どのみち彼女自身には、アテもコネも一切ないのだけれど」
何とも困ったお姫様だ。顔を合わせる機会があれば、世間ナメるなと言ってやりたい所である。
「……あ、漸く理解できました。私が第8訓練施設を視察した理由」
「ええ。もし彼女がノースタウンに来た場合、目指す可能性が高い訓練施設がそこだったのよ。コールウェル少佐の無能っぷりを除けば、施設も機能も十分に揃った場所だし、何より彼女が好きな花畑が周囲に点在しているわ」
「宿舎も綺麗なものでしたし、必要資金も比較的安いので、初心者には人気あるんですよねあそこ」
「でも貴方の報告を聞く限り、やっぱりあそこに彼女を預けられないわねぇ」
どアホことコールウェル少佐の男性優越主義の件もある事だしな。世間知らずの姫様にはきっと耐えられないだろう。
「でも住まいの件は何とかなりそうなの。農耕区画の花屋『ソレイユ・ルヴァン』は知っているでしょう?」
「……ああ、あのソレイユ夫妻が経営している」
「夫妻を説得して、彼女を住まわせる了解を取り付けられそうなのよ。もう前線を退いた身だと言って、最初は渋られてしまったけれど」
「成程。あの場所ならシュレンドルフの目も届くし、何より治安がいいので安心ですね」
「そこで貴方に任務を命ずるわ、ユリウス。『花の娘』をジギーロストまで迎えに行ってらっしゃい」
まあ、そう来るだろうとは思っていたよ。
我儘お姫様の護衛任務。正直気は進まないが、力強く頷いてみせる。
私の返事に満足したらしい姉上が嫣然と微笑んだ。こう言うのも癪だが、人に命ずる時の姉上の姿はある意味物凄く麗しく映る。踏まれたい、扱かれたいと言う男性軍人が出てくるというのも頷けないではない。
あまり出しゃばった真似をすると姉上の夫たるクラウディオ義兄に睨まれるので、秘かにファンクラブを結成し魅力を語り合う程度だそうだが、これは只の余談である。
「『花の娘』は明日の朝一番の汽車でジェラド州の駅を発つわ。貴方もその列車に同乗なさい。決して護衛任務だと彼女に悟られないようにね」
「了解です」
「クライドラフトに到着後は、彼女を『ソレイユ・ルヴァン』に誘導して頂戴。まあこの辺りは私も協力するから、まずは到着次第連絡を寄越しなさい」
「分かりました」
「ジェラド州は近く知事選を控えているの。治安の良さとは裏腹に争いは苛烈らしいわ。それこそ秘かに密偵を放って、ライバルを抹消しようとするくらいは、ね」
「……つまり、彼女がそれに巻き込まれる可能性もある、と」
「このタイミングで出立なんて、つくづく彼女も間が悪いこと……これも、あの子の背負った宿命の為せる業なのかしら」
「…………」
現実主義者の姉上らしくない発言に、少しだけ背筋が凍った。
私も姉上の抱えるプロジェクトとやらの詳細を知っている訳では無い。だが『花の娘』がどれほど重要であるかは、姉上のその口振りから察せられる。
これは思った以上に責任重大だ。油断は禁物、と自分に強く言い聞かせる。
「そしてこれが『花の娘』の個人情報が収められたマイクロチップよ。確認後、速やかにデータを消去した後チップごと破棄しなさい」
「……つまり情報機密クラスAの代物ですか。全く末恐ろしい娘ですね、『花の娘』とやらは」
「うふふ。本人は至って温厚で、心優しい女の子だそうよ。貴方ともきっと仲良くなれるわ」
「そうでしょうかね。私と正反対のタイプじゃないですか」
「これは私の勘だけど、彼女との出逢いは貴方にとっても、非常に有意義だと思うのよ。気合い入れて行ってらっしゃいな」
有意義、か。受け取ったマイクロチップを指先で弄びながら、まだ見ぬ娘に思いを馳せる。世間知らずの姫君が、一体私に何をもたらせてくれるのやら。
この時の私は彼女との出逢いに、さして期待などしていなかった。せいぜい足を引っ張らないようにしてくれればいいさ。そのまま花屋で大人しく守られてくれれば、他に言う事はないのだが。
だが今は私の思惑など二の次だ。命じられた任務の完遂が先決。背筋を伸ばし、姉上に向かってぴしりと敬礼の姿勢を取った。
「任務、了解致しました。シュレンドルフの名に賭けて、必ずやり遂げて見せましょう」
――後に私は、その認識が大いに誤りであったと痛感させられる事になる。
『花の娘』との出逢いが私の人生、私の運命をも変える事になるのだが、この時は想像すらしていなかった。
いずれにせよ私の宿命はもう既に、大きく動き出していたのだった。
...Fin?