親父はいつでも笑顔を絶やさない人だった。
どんなに辛い事があっても、くよくよするのはほんの少し。
あとはいつもの笑顔に戻り、決まってこう言うのだ。
「俺たちはとても短い時間しか生きられないからさ。
その限られた時間の中で、悲しむよりも沢山、笑っていたいじゃないか」
先代の美波姉が亡くなって、当主に就任した時も親父はそう言っていた。
正直、あの笑顔は俺の癇に障る。
理由はよく分からない。だけどとにかく、あの笑顔を見るだけで無性にイラ立つというか。
これも少し早い反抗期というやつなのだろうか。
***
カン、カンッと薙刀の刃がぶつかり合う音が、訓練場に小気味よく響く。
訓練期間中の俺をご指導下さってるのは、当主である我が親父殿。
俺たち以外の家族は、今月は全員相翼院へ討伐中だ。
「そろそろ休憩しないか、穂波」
息を切らしながら親父は言う。
そういえば少し疲れたな。昼メシには少し早い時間だが、俺達は休憩を取る事にした。
縁側に並んで腰をかけて、イツ花の入れてくれた冷たいお茶を飲む。
吹き抜ける爽やかな風がとても心地良い。至福の時ってこんなもんだよな、とふと考えてみたり。
「なぁ、穂波。お前、好きな女の子とかいないのか?」
突然の台詞にぶはぁっ!と飲みかけのお茶を思いっきり吹き出してしまった。
「何やってんだよお前は……汚いなあ」
「親父がいきなりンな事言い出すからだろッ!」
「あはは、悪ィ悪ィ。で、どうなんだよ実際の所は?」
一人の少女の姿が、俺の脳裏をちらりと掠めた。
まァ、親父に嘘ついてもすぐバレるだろうし、腹を括って正直に答える事にする。
「ま、いるこたぁいる、かな」
「おぉっ、なかなかやるじねぇか、お前も……ひひッ」
「だから何だってんだよ……」
うわ、やっぱ言うんじゃなかった……。
「俺も、さ。好きな女がいたんだ……別におかしくないだろ?」
唐突に、いつになく真面目な顔で親父は言った。
「ほら、いつもうちが使ってる装飾品屋の文さん、あの人の娘さんなんだけどさ」
「あぁ……お鈴さん、だっけ」
親父が何故、突然こんな話を始めたのかは分からない。
だけどその真剣な面持ちに気圧され、俺は大人しく話を聞く事にした。
「初めて会った時からあの人は運命の人だって思ったんだ……おい、笑うなって。
本当、マジな話。話してみると凄く明るくていい子だしさ」
意外だな。親父がそこまで一人の女性の事を真剣に想っていたなんて。
親父は誰にでも平等に優しかったからな……。
「なぁ、ちょっとこれを見てくれよ」
親父は懐から何かを取り出し、俺にぽいと投げて寄越した。
それは木で作られたかんざしだった。
素材自体はそんなにいいものではなかった。だが俺が驚いたのは彫り込まれた細工のその緻密さだ。
椿の花をかたどったそれは、その手に関しては素人の俺にも分かるくらい丁寧に、精巧に彫られていた。
これを彫った人はよほど名の知られた職人に違いない。
「こんなもんどうしたんだよ。高かったんじゃねぇの?」
「あ、それ俺が作ったんだよ」
俄かには信じられない台詞に、俺は危うく手にした湯呑みを取り落とす所だった。
「はっはっは、驚いただろ? 俺にはこんな特技があるんだぜ?」
「マジかよ……」
……人間、何か一つは取り柄はあるらしい。
「このかんざしさ、本当はお鈴さんにあげるつもりだったんだ」
「え、あげないのかよ? そんなに良く出来てるのに……」
「もうすぐ死んでいく人間に、こんなもん貰ってもさ。あっちにも迷惑だろ」
一瞬、親父が何を言っているのか分からなかった。
「なっ……何言ってやがるんだ! 何で弱気になってんだよッ!」
我に返った俺は、思わず親父に怒鳴っていた。
「何か? じゃあ親父はこのまま何も言わずにいるつもりなのか?」
「ああその通りだ」
あっさりと親父はそう言い放ちやがった。
「だってそうだろう? もうすぐ死んでいく人間に“好きだ”なんて言われたって、それからお鈴さんはどうなるんだ?
向こうの気持ちも考えてみろよ。お互いに気まずくなるだけだ。中途半端な真似はしたくない」
……確かに親父の言い分はごもっともだ。
だけどそれで、納得なんて出来る訳ないだろ!
「でも、親父はそれで本当にいいのか!?」
「ああ、俺はこのままでいいさ」
いつもの笑顔で、親父はそう言った。
――その笑顔を見て、俺の怒りは遂に頂点に達した。
「ンな弱気な親父は大ッ嫌いだ! 馬っ鹿野郎ッ!」
それだけ言い放ち、俺はその場を駆け出していた。
……ああ、今分かった。俺が親父の笑顔が嫌いな理由が。
悲しみを押し隠した、作り物めいたその笑顔が大嫌いだったんだ。
自分に嘘を吐いている、その偽りの笑顔が大嫌いだったんだ……
(畜生!何で笑っていられるんだよ!何で自分の心に嘘なんてつくんだよ!)
ただ、親父のあの笑顔が、目に焼き付いて離れなかった。
***
──あれから一月後、親父は逝った。
老いと、悪鬼の撒き散らした流行り病が重なり、それがますます親父の死期を早めたようだ。
遺言めいた言葉は何一つ言わなかった。
……そのあまりにも呆気ない最期に、涙も流れなかった。
簡単な葬式を済ませた後、俺はイツ花と二人で親父の遺品の整理をしていた。
俺が生まれた時に撮ったらしい、家族の写真。
ぼろぼろの半紙に書かれた、五・七・五・七・七の言葉たち──親父が和歌を嗜んでいたなんて、全然知らなかった。
そして、小さな綺麗な箱に収められた、あのかんざしを見つけた。
それを見つけた瞬間、俺の心臓が大きく跳ね上がった。
──こんなに大事にしまっておくなんて、結局諦めきれてなかったんじゃないか!
口ではああ言っていた癖に、本当は逢いたくて仕方なかったんじゃねえのかよ!
本当にあんたは大馬鹿者だよ、親父ッ……!
***
その日は激しい雨が降っていた。
俺の足が向かう先は、街中の大通りの文さんの装飾品屋。
手の中にはあのかんざし。
──ごめん、親父。
お節介かもしれねえけど、俺はこのままにしておけない。
「あら、こんにちは、穂波君。どうしました、こんな雨の中を一人で?」
出迎えてくれたのは、文さんの娘のお鈴さん。
白い雪の様な肌をした、笑顔のよく似合う可愛らしい女性だ。
大きな目をこちらに向けながら、怪訝そうに問い掛けてくる。
「親父が亡くなりました」
単刀直入に俺はそう告げた。
……不器用だから気の利いた台詞が言えない。そんな自分が、今はひどくもどかしかった。
瞬時に、お鈴さんの表情が凍り付く。
「え……大河さん、亡くなったんですか……?」
「……はい。五日前に、流行り病で」
そう言って俺は、そっとお鈴さんにあのかんざしを差し出した。
「親父があなたの為に作ったものです。受け取ってもらえますか」
「大河さんが……!」
俺の手からかんざしを受け取るなり、お鈴さんはその場で泣き崩れた。
雨や泥で着物が汚れていたが、そんな事は気にならない様であった。
俺は黙って、自分の差していた傘をお鈴さんに差し出した。
お鈴さんは俺の胸に縋り付き、大きな声で泣きじゃくる。
「……親父は、あなたの事を、真剣に想っていました。俺は、それをあなたに知って欲しかった」
「ああ………私も、私も大河さんを、お慕いしておりました……!」
……親父の馬鹿野郎!
何で、何で一言でもこの人に、あんたの本当の気持ちを、あんたの口から伝えてやらなかったんだ!
「大河さん……もう一度貴方様に、お会いしたかった……」
……お鈴さんのその言葉を聞いて、俺はここで初めて泣いた。
手先は器用だったけど、色恋には不器用だった、親父の死に静かに泣いた。
雨が、涙を全て洗い流してくれた。
冷たい雨が降りしきる中、俺とお鈴さんは二人、親父を想って、いつまでも泣き続けていた。
***
あれから三日が経った。
間抜けな事に俺は雨に打たれまくった所為で、風邪をこじらせてしまっていた。
三日経った今でもまだ熱は下がらないときたもんだから、まったく情けない事この上ない。
「あんた本当に馬鹿ねぇ。傘さして出掛けてった癖に、何でびしょ濡れて帰ってくんのよ」
熱で苦しむ俺を笑い飛ばすのは葛葉姉。
それでも一生懸命に看病してくれている。
……以前、親父に告げた“好きな女”ってのがこの葛葉姉だったりするのだが、それはまだここだけの話だ。
お鈴さんは今日も、文さんの装飾品屋の看板娘として元気に働いている。
彼女の頭を飾るのはあの木彫りのかんざし。何でもあの細工の素晴らしさが人々の話題を呼んだらしく、ここ最近は客足が増えてきたという。
今日もお店は大繁盛。この店が京一番になる日は案外近いかもしれない。
そして、すっかり晴れ渡った空を見上げる。
親父はきっと天国で笑っているのだろう。
作り物ではない、本物の笑顔で。
「ちょっと!あんた病人の癖にあんまりうろつかないでよねッ! 悪化したって知らないわよ!」
「わあったよッ!」
葛葉姉の呼び掛けに、乱暴に返事をしつつ、俺はもう一度空を見上げて呟いた。
――俺は親父みたいになんかならない。
作り物の笑顔なんてまっぴらだ。
本当の笑顔で、きっといつか、大切な人に本当の気持ちを伝えるんだ。
空が、笑ったような気がした。
了