「……立てるか、坊主」
そのまま足音も立てずに立ち去ったユウギリが見えなくなるのを見計らい、羽柴司祭が手を差し伸べる。
瞬時迷った後、俺は渋々ながら差し出された手を取った。遺憾だが、自分一人の力では到底立ち上がれそうになかった。
「どうする。このまま、トラステヴェレの住み処まで送ってやってもいいが?」
「……遠慮しておく。フィオーレに、こんな無様な姿は見せられない」
「分かった。それじゃあお前さんの体力が回復するまで、おじさんの話にちょっと付き合ってくんねえか」
身体が鉛のように重い。何をするのも億劫だ。だが羽柴司祭の話というのも気にならない訳では無かった。
恐らくユウギリに関係する事だろう。確かにあいつは温和な見た目に対して嗜虐的だが、今日はどこか様子がおかしい。
俺が慢心していた──その事実を抜きにしてもそれ以外の何かに対する苛立ち、或いは焦りのようなものを感じていた。フィオーレの名前を持ち出し、俺を打ちのめしたあの言動も妙に気に掛かる。手合わせや訓練などではなく、まるで俺を一方的に痛めつけるかのような態度。
「……とは言っても、どこから話せばいいのやら。坊主、お前さんはユウギリから前世について何か聞いている事はあるか?」
「前世……? ああ、昔の俺は日本に居ただとか、その次はプロイセンだとか、世迷い言なら何度か耳にした」
「世迷い言、か。言っておくがそれは全て事実だぞ」
……俺の思考回路がイカれてるのか? 羽柴司祭の言っている事が、咄嗟に理解出来なかった。
魂のサイクル、所謂『輪廻転生』を信じていない訳でもない。だが実際に俺の魂の巡った軌跡を、ユウギリ達が把握しているなど俄かに信じ難い話だ。
奴らはヒトではない、人知を超えた異形の存在であると、知識としては知ってはいるのだが。
「その調子じゃ、ユウギリが不老不死で1000年の時を生きてる、っつう話も信じてねえだろ」
「全くの嘘だとは思ってないが、本当だとも思っていない」
「あいつがどんな説明をしたかは知らねえが、どうせあやふやな言い方しかしなったんだろうな。無理もねえ」
口調は若干ふざけた様子だが、表情は真剣そのものだった。
ユウギリと同じく人を食った性格の羽柴司祭だが、こればかりは真面目な話なのだろう……ああ、頭が痛い。
「だがこれも事実だ。あいつの生まれは1000年以上前、10世紀──日本の平安時代にまで遡る」
「……すまん。理解が追いつかない」
「あいつのチートっぷりを見てりゃ分かるだろ。あれは1000年の永い刻に、裏打ちされた実力だ」
ユウギリは元々、極東の島国・日本から渡来した陰陽師(欧州で言う所の魔法使いのようなものか?)であるらしい事は聞いていた。ヤツが度々俺達クルセイド組を日本に派遣しているのは、そういった背景もある。
羽柴司祭の話によれば、その後源平合戦とやらに関わった後、国外へ飛び出し世界各地の歴史事件に秘かに介入していたという。
だが、その後どんな経緯でバチカンの聖職者に至ったのかは言わなかった。どうやらユウギリにとってあまり触れられたくない所らしい。羽柴司祭は全てを知っているのだろうが、そこは曖昧に暈された。
「そうして永い時を過ごすうちに、お前さんとフィオーレの魂を見つけた。18世紀、プロイセンでの話だ」
欧州の歴史なら俺も頭に叩き込んでいる。確かその年代は、オーストリアやハンガリーと戦った七年戦争が起こった辺りか。俺やフィオーレの前世は、正にその戦争に関わっていたという。
この話もユウギリ本人から聞かされた事はあったが、どうせいつもの世迷い言だろうと軽く聞き流していた。だが羽柴司祭が真剣に語る所を見れば、恐らくは真実なのだろう……俄かには、信じられない話だが。
「俺もあんまり詳しくは語りたくねえんだが、その戦争で前世のお前は命を落とした。1759年8月、クーネルスドルフ──お前さんは27歳の誕生日を、迎えたばかりだった」
「…………」
「今のお前さんも27歳。ユウギリはお前を失うんじゃないかと、過敏になってる節がある。厳しく接したのも多分、その辺りが関係していると俺は思う」
前世の俺がどのような死に様だったのかは知らないし、ユウギリも語ろうとしない。聞いた所で俺も信じなかっただろう。
ただ羽柴司祭の言い方だと、前世の俺の死はユウギリにとって痛烈な出来事だったらしい。フィオーレの前世についても聞き出したかったが、そこは羽柴司祭も口を濁した。どのみち、あまり愉快な話ではなさそうだ。
「……それでも、俺は俺だ。前世の話を持ち出されても、今の俺には関係無い」
「なあお前さん、想像出来るか? 1000年もの永い間、親しい人達を見送り続けたユウギリの人生を。
死や老いといった概念から切り離され、生き続けるヤツの葛藤や苦しみを、想像した事はあるか?」
「…………」
「いずれ失うと分かっていても、ヤツは人を愛さずにはいられない。その分だけ失った時の悲しみや苦しみは深い。
だけど人を愛さずにはいられない。ユウギリはそういうヤツなんだ。1000年前からずっと、な」
基本的にぼっちが苦手なんだよアイツは。羽柴司祭はどこか悲しげに笑いながらそう言った。
自分に関わる人間に対して非情になりきれない。そこがヤツの弱さなのだと彼は言う。
1000年以上もの間、ユウギリが関わった人間は多数に上るが、喪失の度に幾度と無く傷付き、悲嘆に暮れているのだと。
「お前さんは恐らくユウギリを完璧超人だと思ってるだろう。その認識もあながち間違っちゃいないが、繊細な一面もあるんだと知っておいてくれ。人間じゃねえけど人間くさいヤツなんだぜ、あれでも」
「……ふん。一応、覚えておいてやる」
「おいおい、苛められたからって不貞腐れるなよ。そりゃあ確かに、あいつもやりすぎだったけどな」
……ユウギリの弱さ、か。素っ気無く返したものの、正直な所少し動揺していた。
あいつはいつでも完璧だった。弱点など何処にも見当たらないように思えた。だが裏を返せば、俺達の存在自体が弱点という見方も出来てしまう。羽柴司祭の話を聞いた限りでは。
仮に事実であったとしても、ユウギリがそれを表に出すことは無いだろう。触れた所で「自惚れないで下さい」と、冷やかに笑われるのがオチだ。だから何も気付かぬフリをして、これまで通りに接していくべきなのかも知れない。
ただ、ユウギリが俺の前世の享年であったという、27歳という年齢を気にしているのが妙に引っかかる。まだまだ隠していることは多そうだが、恐らく問い詰めた所で口を割るまい。
それは恐らく、目の前の羽柴司祭も同様だ。これ以上話を続ける気は無いようで、気の抜けたような欠伸で話題の打ち切りを告げる。
「……と、おじさんの話に長々と付き合わせて悪かったな。帰るんなら住み処まで送ってくが、どうする?」
「いや、一人で帰れる。お前に世話をかけたと知れたら、あいつに何を言われるか分からん」
「ま、それもそうだな。それじゃ、フィオーレやヴェロニカによろしく言っといてくれよ」
釈然としない部分もあるが、まあいい。立ち去っていく羽柴司祭の背中を見送り、俺は深く嘆息した。
最初にユウギリが言っていたように、今は更に邁進するだけだ。どのような思惑が潜んでいるにしろ、俺はフィオーレを必ず守る。世界中の何よりも──俺自身の生命よりも、大切で愛しい存在を。
俺の知らない所で、大いなる闇が動き始めていた事に、この頃の俺はまだ気付いてはいなかった。
そして、ユウギリの1000年以上にも渡る戦いの系譜は、いよいよ最終章を迎えようとしていた。