あの崩壊した法廷での、運命の再審理。
牙琉検事と審議を重ねても、ついぞ真実を光の下引き出すのも敵わず。
夕神検事の死刑が執行され、成歩堂の娘や部下達も散りゆき――全て闇に潰えた。
そうして、金のバッヂを棄てたピアニストの成歩堂が、ある日、妙に澄んだ顔をして御剣に問う。
『みんなが幸せな世界って、どんなのだろう?』
親友はその心を遂に壊してしまったのだ。ならば、せめて安寧の嘘に包もう…と、御剣は、その戯言に付き合った。
その翌日。
御剣は9歳の子供になる。
父も居る。助手の盾之おにいちゃんとダンスイーツのビデオを見て、弁護士になるお勉強。
12月28日の裁判は、子供心に父の敗北が何か釈然としなくて裁判所のトイレで泣いてるうちに、地震が来て父と暗い中裁判所から避難した。
やがて、謹慎から復帰した狩魔検事がやたら絡んでくるが、父は満更でも無さそうに、逐一笑って返している。
やがて、狩魔も御剣信とのやり取りで絶対有罪のスタンスを変えて行き、二人は、法の限界に挑む相棒になっていった。
御剣怜侍は、弱きを助ける弁護士になりたかったが、司法試験を受験する頃には心を変え検事への道を選ぶ。
事件の影にもほどがある給食費泥棒の腐れ縁の、無罪の立証や情状酌量にほとほと疲れたのもあるが。
幸せであればある程の違和感。ほんの時折見える、宙泳ぐ青い鱗。
何より、検事になって――今度は弁護士を待たねばならない。と、強く思ったのだ。
時は、やがて巡り。
御剣は、余計なお世話ながらも何かと気にかけてくれる先輩検事である神乃木に彼自身の華燭の典に呼ばれる。
細君となる女性は、何と、やり手弁護士と有名な綾里千尋。
法廷で何度もやりあっているうちに、愛が芽生えたという。
訳のわからないところはあれど、神乃木はいい先輩。その細君の美しさも相まって素晴らしい式だ。来て良かった。
そう、ぼんやり暖かい幸福に浸っていた時、からころと下駄の音と共に運命が巡る。
「君は――?」
今更の問いだ。御剣は、その女性の名も立場も知っていた。
新婦の妹。
「綾里、真宵…くん?」
彼女の涙を一杯に湛えた瞳、今にも泣き出しそうな顔を見た瞬間――雷に打たれたような衝撃を受ける。
「御剣検事、あなたは、青い龍を知りませんか!?」
彼女こそ、この幸せな世界に違和感を感じる唯一の同類だと…。
あの青い龍の名前を、思い出せない。
御剣は、頷く。
「知ってる」
その一言に、崩れ落ちる真宵を抱き締めながら、御剣は、幸福な世界のもう一つの物語を聞いた。
自らの母が長子となって、家督の相続に何ら問題もなく、叔母との関係も良好。娘の春美共々本家を支えてくれている。
春美の姉は、美しく慎ましいあやめ。
千尋にも、霊力はない。
この代の綾里家の長姉には、霊力こそは恵まれなかったが、それぞれ、自らの道を歩き居場所を得ていた。
次の妹たちは共々歴代最高級の力を秘めて、綾里家は、恙無く。
「御剣検事、あたし、幸せなんです…なのに、幸せであればある程、泣きたくなるんです」
言わずもがな、あの青い龍。
この幸福で生温い世界で、名前を思い出す事すら禁忌なのだとしても。
「私達だけでも、探すんだ――相棒」
見上げた空にギンが飛ぶ。清々しい笑みで新郎新婦を祝っていた夕神検事がいつも貴人のように傅く母娘はどうしているかと尋ねれば。
或真敷一座の大魔術ショーを見に行くらしいとの答弁。
一座も、何処かで見たような二本の角のような髪型の青年とその母似の妹の時代へと順調に代が引き継がれているようだ。
幸せな人間しか居ない、幸せな世界に、たった二人。
「私達だけでも、この偽りに異議を唱えようではないか」
途方も無いと思えた世界に抗う旅程は、意外にも、それ程の労苦を経ずして、終わりを見る。
姉の結婚を機に綾里の家督を継いだ真宵に、母は、この国を支える秘密。もう一つの家とその役目の存在を口伝したのだ。
「その家は、贄」
その血の力は、男に継がれる。
その命と引き換えに、世界を創り変える――龍の一族。
その名は。
「成歩堂…」
御剣と真宵は二人、舞子が示した西方、琵琶湖の小さな島の小さな社の裏手に立つ、苔生した墓石の銘をなぞる。
世界は、数多の龍の死骸の上でのうのう生きていた。
「キサマは、バカか!誰が、キサマを責めた!?」
真実を導き出せず、最悪の結末を招いたのは、成歩堂と相手検事の牙琉だけじゃない。彼らの肩に全てを乗せた全員の責だ。
「誰が、キサマの犠牲を望んだッ!?」
御剣の石碑を鷲掴む指が、爪も剥げんばかりに、苔を毟る。
真宵も涙を零しながら、絶叫した。
「確かに、みんな不幸かも知れない!だけど、あたしたちは――なるほどくんが居る世界が、いいの!」
龍の死骸と偽りの安寧なんて、いらない!
「異議あり!!」
そう、心からの、世界を拒絶する叫びに、大気が歪む。
《――龍が創った世界は、偽りなんかじゃないんだけれど、ね》
星々の狭間に浮かぶ、あの日の崩壊した大法廷に、気付けば、事件の関係者が全て在った。
「御剣検事局長!あそこに!」
今やとても懐かしい天啓の声が指差す、裁判長の座の下にある。
《龍の死に場所。星巡る法廷に、ようこそ》
喉を剣に貫かれた痛ましい姿のまま永劫の眠りについている成歩堂龍一を胸に抱いた詰襟の青年が、感情の欠落した声で滔々と事実を述べた。
《龍の弱点、逆鱗のある喉を躊躇いなく一突き――見事な、作法だね》
周りに累々と、成歩堂と同じ面影を持つ龍の力を持つ男たちの屍が、転がっている。
元の世界で死した筈の夕神が、ヘッ…と、その凄惨な光景に挑むように、口の端を歪め笑った。
「おめぇさんは、誰ぞ?」
対する青年は、古来より由緒正しい『先に名乗れ』という口上を使いまわす事無く素直に答える。
《ぼくは、成歩堂龍ノ介。このコのひいひい…どれぐらいかわからないけれど、じいさんです》
そうして、尋ねもしないのに、まるで腕の中の子孫に子守り歌を聞かせるように語り出す――星が廻った。
《昔、昔から、成歩堂家の龍の子は、護国の為に生まれ、死す》
ある時は、天災の為、
ある時は、疫病の為、
ある時は、海の向こうからの侵略の為、
ある時は、外交の失敗の為、
ある時は、戦争の為、
この国が傾いた時、命を賭して時を戻し、正しく紡ぎ直す。
《この度は、明けぬ法の暗黒の為――我ら成歩堂家の男子、龍の子の亡骸から、歴史が生まれるのです》
事実に気付いた御剣が、我が身を抱いて震えた。
「私の…せい、なのか?」
成歩堂は壊れたのだと浅慮した結果、慰めに紡いだ、皆が幸せな世界の戯言。それを叶える為に……
龍ノ介は、眉根に皺を寄せ痛ましげに答える。
《皆さんは、龍一の創った世界で、幸せになれたのですか?法の暗黒は明けて?》
「法の暗黒が明けた。というより、元々暗黒も存在しなかった。と言う方が正確ですかな?」
牙琉響也が、少しも嬉しくなさげに、検事席の後ろの壁を叩く。
「魔術師のパパもママも、そして、お兄ちゃんまで。みぬきは、幸せでした――でも、パパが居る人生程幸せじゃありませんでした!」
魔術の子が、ぽろぽろ涙を流す。それは、本来成歩堂しか知らないものだったのに。
『オネガイ!モトノセカイニカエシテー!!』
大事な人も救えず死なせた現実から逃げたけれど、このような偽りの幸せを施され、彼の死の上でのうのう生きるぐらいなら、どんなに辛い現実とも戦うから!
嗚咽で声にならない心音に代わり、モニ太が絶叫した。
彼らが愛する弁護士の子孫とは違い、短く形の整った眉を顰めて、途方に暮れたように龍ノ介が尋ねる。
《如何ですか、裁判長?》
名が出て振り仰げば、あの運命の再審理と同じ頂の席についている老判事が、重々しく頷き応じた。
「私の考えを述べましょう。証拠だろうが過去だろうが、疑問や異論ややり直しの余地がある限り――私達は、追求すべきです」
どんな暗黒が、絶望が、先を塞いでいても、もう二度と間違えはしない。
「今度こそ、弁護士を信じるよ!」
夕神かぐやの声に、ポン子が腕を上げる。
龍の屍の中、闇に沈んだ人間達が再び立ち上がり、天の星を逆さに廻し始めた。
今にも挑みかからんばかりの視線に八方から晒されている龍ノ介は、子孫の身体を落としてしまわないように細心の注意を払いながらも、肩を落とす。
《異議ありと申されましても…龍の創った歴史は正史ですし……このコが、最後の龍ですし……》
つまり、死を賭して世界を創り直せる龍は、滅んでしまったのだ。と、いう事実に打ちのめされ、そんなと涙を流すみぬきの肩を、優しく叩く温かく大きな手の持ち主、御剣は、もう片手の指を立て、親友に倣いふてぶてしく笑った。
「異議あり!成歩堂家の者は、潰えた希望をチラつかせるほど冷酷でない!」
ハッタリだった。ただ、確信があった。龍は国の為に命を懸けるほどお人よしの一族なのだから。
星が、目に見えて速く逆行をする。
短いが、星巡る時は長い。
それまで、声一つ上げていなかった、かつての成歩堂の隣でずっと走っていた女性が、一族の家元の印を握りしめながら、叫んだ。
「あたしたちの、なるほどくんを返して下さい!」
果たして。詰襟の、もしかすれば軍人なのかもしれない先の龍は、長い長い溜息をついて、笑う。
《護国の同志である綾里に泣かれると、ぼくも弱いよ…わかった》
実は、ぼくは成歩堂家の龍の中で、唯一自然死を迎えられたんだよね。
《だから、ぼくがぼくの死を使って、歴史を上書きするよ》
星が、途方も無いスピードでぐるぐる回る。
《――成歩堂家最後の龍は、龍一に非ず》
龍ノ介は、腕の中冷たく眠る子孫の喉から剣をゆっくり引き抜くと同時に、その運命の逆行に巻き込まれないように懸命に耐える人間の魂たちに、告げた。
《発想を逆転しよう。正統な龍の歴史が変えられないなら、歴史を紡ぐ龍を正統じゃないものに変えるんだ…》
今度こそ、幸せにね。
子孫もその周りの魂も、全て星巡る渦に巻き込んで、龍ノ介は。
剣を胸抱き、崩れた世界の中、眠りに就く。
――成歩堂家の歴史は、今、閉じたのだ。
耳をつんざく、立て篭もり事件のアナウンス。
御剣は、自らの執務机の椅子から上体を起こし跳び起きる。
心臓が幾ばくか驚きに早鐘を打つも、秘書から緊急に繋がれた電話に出る頃には、いつもの平常さを取り戻していた。
相手は、わかっている。夕神かぐやが、UR-1号事件の再審理を御剣にするように脅迫するのだろう。
自分達は、今度こそ、正しい方向に歴史を動かすのだ。
そして、成歩堂と共に、真実を……と、思って宇宙センターに着いた御剣は、とりあえず目の前の真実に、白目を剥き衝撃を受ける。
「な、成歩堂……!!?」
「なんだよ?」
金に輝く弁護士バッヂを付ける胸が、大きい。
いや、正確には……。
「お、女…だ……と……!!?」
正統な龍でなくする。とは、こういう事か…!
龍の力は男にのみ、受け継がれてゆく。ならば、最初から女にする事で、成歩堂の龍の力を無効にする、と。
「な、なんだよ…?今更、何言ってんだよ、当たり前じゃないか!その驚き方、失礼だよ!?」
珍しく憤慨する幼馴染に、検事になってから最大のダメージを受けながらも、じわじわと、御剣の腹の底から、またしても『成歩堂家』にしてやられた事に対する希望と可笑しさが込み上げ、大きな声で笑った。
「みつるぎ検事さんは、ワライダケでも食されたのでしょうか?」
以前の歴史の時に居なかった春美は、あの幸せなだけの世界に異を唱えた同志である真宵からの差し金だろう。
「さあね、御剣ってたまにヘンな事がツボに入るからなぁ」
この遠慮のない言い草も、懐かしい。
「ム。すまない――再審理まで時間の余裕もないし、そろそろ現場を調べよう」
「ああ」
スタスタ歩いてゆく真っ直ぐな背中は、同じ。
ならば、もう恐れる事は無い。
たとえ、どんなに苦しくても先が見えなくとも絶望が待っていようとも。
今度こそ、この辛い事だらけの世界で、真実の夜明けを齎してみせる。
そう、それが、あの龍の血脈の最後の望みなのだから……。
-おわり-
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