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初体験

こんな日が来ようとは想像だにしなかった。この私が自ら身体を投げ出そうと思うなんて…
ついに運命の人に出会ってしまった…


私の足を預けられる人に出会えた!
何度か記事に書いているが、私は人に触られるのが苦手で、足回りのオイル施術が本当に本当にムリだ。試しに受けてみたことはあるが、誰にやってもらっても何をしてもらっても大暴れだった。足裏なんて自分で触るのも嫌だ。

私の足の運命の人は、職場の後輩だ。前に揉みを受けた時に、素直に上手いと思ったし何となくフットケアも受けられるんじゃないか、と思った。今日まで機会がなかったが、やっと受けることができた。ガチガチになったへっぽこダンサーの足はなかなか手強かったようだが、彼女も「奇跡が起きている」と言ったくらいに、私は大人しかった。私がイメージしていた通りに。

彼女は確かに上手だ。でもそれ以上に相性が良かったのだろう。フットケアというものの効果を身をもって知ることができた。

ああ、楽しかった。

見る

ここ半年くらいで乱視が急激に進行した。今までも「ほんと見えない」と思っていたが、序の口であった。何度コンタクトや眼鏡を調整してもらっても2日と保たない。なんでも、乱視に対してのコンタクトや眼鏡の調節は難しいらしい。そして乱視は時間帯とか体調とかに影響を受けやすく、矯正器具が理想的に機能する時間も結構限られている。頭痛がするほどクリアすぎる視界の時もある。しかし、殆どの時間をぼやけた状態で過ごしている。

フラのレッスンを受けていても、目の前にいる師匠が伸ばした手の手のひらが上向きか下向きかもわからない時がある。確実に少しずつ見えづらくなってきている。強度近視のさだめではあるが、見えなくなっていくのは怖い。ダンサーとしての活動に大いに支障が出るし、何より「見る」という癒しを失くしてしまう。

しかし、最近気づいた。目を瞑っていても見える。形の詳細や色は分からないが、距離感とか大きさとかは分かる。「額より上、前髪の生え際よりも上の何か」を使って感じられる。或いは後頭部から頚椎の何処かなのかも知れない。サードアイ、なんてご大層なものではなくて。もっと皮膚感覚に近いようなものだ。

この感覚は今後も開いていってくれれば、色々と助かる。が、やっぱり通常の視力は失くしたくない。どうしたものか。

初めての休日出勤

お客さんが来てくださるので、その時間だけ出勤することにした。休日出勤は初めてだが、奇しくも今の職場最後の日。そんな機会に恵まれてラッキーである。

施術は一回一回が大切ではあるが、やっぱり同じ人の体を繰り返し見ていく、というのは面白い。回を重ねるごとに不思議に良くなっていく。理想は一回で改善させてしまうことだが、そんな技術も器もない。ただ、時間がもたらす効果、というのは絶対にある。一回の施術であろうと、回数を跨ぐ施術であろうとも。

次の職場はどちらかというとリラクゼーション寄りの整体サロンだ。こういうところでお客さんと長いお付き合いができるかどうかということは真価が問われる。要は癒しの時間をそのセラピストと過ごしたいかどうか、ということだ。腕がいいのは理想だが、それだけではない。この仕事を始めた直後はそれだけを目指していたけど。

たった一回の施術に全てを乗せられたらもっといいけれど…今はただその時間を心地よいものにできるようにしたい。

動きと結果

ゴルフで一打目のウッドでフルスイングするのと、パットや9番アイアンでピン側のボールを狙う時とでは全く振り幅が違う。
ウクレレを弾く時、強くて早いリズムを刻むのとゆったりとした余韻を響かせる伴奏をするのとでは弾き終わった後の手首の動きが違う。
歩く時地面を蹴り出す強さで、進むスピードは全く変わる。

ウッドでは体全体を大きく捻り、それを元に戻す反動で球を弾き飛ばす。パットの時は寧ろ捩れを最小限に抑えて、ちょんと押し出す。
強い音を出す時の手首は力強く下に下ろされ、止まるもしくは次のストロークに備えてすぐに上がってくるが、最後の余韻を残すには手首は宙に浮いてゆったり振動する。
強く蹴ればそれだけ前に大きく進む。

問題はスピードではなくて、振り幅だと考えられる。動くか止まるかで結果はそんなにも違う。
これは全ての現象に言えるのではないだろうか。

覚書的超長文

今までのブログからお気付きの方もおられると思うが、もうすぐ新しい職場に移る。
来月からは全く新しい環境、全く違う条件下でこの仕事を続けて行く。

今の職場への感謝は計り知れない。ここまで育ててくれて最後の日まで研修もしてくれる。たった一年で、それ以上の経験は積ませてもらえた。スタッフ間のやりとりだって悪くなかった。副業が許されていたら、もう暫くは辞めなかったかも知れない。
でも、あの人が言うことをところどころ理解できないし、私に分かるものがあの人たちには理解できない。いいとか悪いとかではなく、ただ違うものは違うのだ。

初めて人の体に触った時、効果を出せるようになるには何年もかかると感じた。しかし実際のところ「触れればほぐれる」ということを知った。重要なのは筋肉をほぐすことではなくて、全然別のところにあるのだと知った。

これからは日本の整体に留まらず、その源や全く違うアプローチの仕方にも触れていきたい。今度は技術・知識の面で骨格の調整も学ぶことになる。しないのとできないのとでは全く意味が違うからだ。

この仕事に就く時、私に「ヒーラーになりたいの?」と尋ねた方が一人。あの時、私ははっきりと答えなかったはずだ。自分でもよく分からず、濁したのを覚えている。今なら答えられます、先生。
「ヒーリングが必要な人にはヒーラー、「良く」なるためのパートナーを求める人には最良のパートナーでありたい」と。

他人に関する完璧な理解なんて存在し得ないだろう。それでも私は「人」という現象をもっと知りたい。もちろん自分のことも含めて。まだまだ人を癒せるような、導けるような器ではない。私自身が癒しを求め、導いてもらいたがっている。
それなのにそれが簡単には手に入らないというのは面白い。この天然引き寄せ体質をもってしてそうならば、私自身が手に入らないことを望んでいる、ということだ。自分のためのものが簡単に手に入ってしまったら面白くはないから。

なんだか久々に長文になってしまった。何を書き残したかったのかといえば、一言で済むのに。私は楽しくて仕方ないのだ、と。
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