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今日はなんかイイ、と思った日があった。何だかわからないけど、理想的な感じで仕事できている。

ふと、気づいた。今日はいつものBGMがかかっていない!
いつもはオルゴール音楽的な妙な曲が鼻につくのだが、それがないだけでこんなにも違うとは…

前の職場ではヒーリングなんちゃらみたいなスピリチュアル系音楽とか、洋楽のハープアレンジとかが流れていて本当に鬱陶しかった。それに比べたら今の曲の方がまだマシなのだが…ない状態を知ってしまったのは幸か不幸か。
音楽を閉め出すのは難しい。

I was through.... / I've been through?

最近、とある小説を読了した。かなりの長編だったが、面白く読めてしまった。
これは今の私にとってはかなり画期的なことだ。

幼い頃は文学少女と呼ばれて、常に読書漬けだったのだがここ10年くらいは読書恐怖と呼ばれる状態になってしまってろくに本が読めなかった。恐怖、といっても恐怖症ではない。
ただ、本の内容が頭に入ってこなかったり、何度も同じところを読み返してしまったり、読書という行為そのものに集中できなかったりするのだ。

実験として、件の小説を読み終わった後で全然違う本も読んでみた。読める。10年前の感じとは違うような気はするが、とにかく読める。
あの本がカギになるような特別なものだったのか、単に時期が熟しただけなのかはわからない。
が、いずれにせよ読めることはありがたい。

陸サーファーの夜

久々の波乗りを楽しんだ夜、いつも同じ体験をする。
ベッドにうつ伏せに寝そべる。うとうとと微睡みに吸い寄せられていく。もう、起きているとは言えない状態になるとまた海に浮かんでいる。

ボードの上ではできるだけ力を抜いておかないと、あっという間に落ちてしまう。海を誤魔化すことはできない。波が来たら体を起こしてやり過ごす、大波なら諦めて波の下に入る。やっとボード上に戻ってくると、柔らかいガラス玉みたいなクラゲがボードの上を流れていく。
波は私を前後に、左右に、上下に、揺らす。もう、立ち上がらなくたっていいような気分になる。このまま全身を委ねてこのまま…このままで。
普段は聴こえづらい片耳も水が入っているにも関わらず妙によく聞こえるし、コンタクトは両方ともいつの間にどこかにズレてしまったけど見える。

ボードの後ろの方にズレ過ぎてしまった。私は手のひらに、ベッドカバーの手触りとボードのウレタン素材の感触を同時に感じながら体を前へ移動させる。

浜の方にノーズを向けようとすると、波が横の方に私を押し流す。足先や手首の水に浸かっている感じが気持ちいい。照りつける日差しが嘘みたいだ。波をやり過ごすとき、全身が海に沿うみたいに心地よくしなる。夢みたいだ、と思う。

醒めているのに眠っているような状態、は妙にリアルで単なる「アクティビティ後の副産物」とは感じない。寧ろ、これを味わうことに意味があるのではないか、と思うこともなくはない。
海は本当にいい。

2年ぶり?

くらいで波乗りに行った。体の衰えを実感したが、乗れなくても波に飲まれて洗濯機みたいになっても、やっぱり楽しい。ボードの上で波待ちしてるのが一番楽しい。何よりいいのは、抗いようもない強い自然の中で遊ばせてもらう、というところだ。
最初は波に対して身構えていても、すぐにうねりにすべてを委ねるようになる。その方が楽だし、乗れる率も上がる。

海はコントロールできないので、入るだけでものすごく疲れる。二時間もすると息は切れて、砂浜を歩くのもやっとだ。けど、波は確実に頭の中のモヤモヤを洗い流してくれている。結果、ちょっと元気になれる。

サーフィン、という名目で海に行く人は沢山いる。
でもその目的は色々だと思う。プロならば大会に向けて技術を磨くため、趣味のサーファーならいい波をキャッチして波を滑るのを楽しむためだったり、運動のためだったり。
私のように、委ねることを楽しむ人も実は多いと思う。

日焼けや潮のベタつきが嫌なのでやりたくない、という人も多いが、騙されたと思って経験してみるといいと思う。海は、なにがしかのギフトを授けてくれるでしょう。

名古屋に帰ったら、夜はフラのレッスン。有意義な1日だ。

衝動

タナトスとかデストルドーとかいうものとはなんとなく違う気がするが、消えてなくなればいいのに、という感覚と共にある。
いいときも悪いときもそれは変わらない。

幸せを噛み締めるときは、風に溶けて消えればいいと願い、自己嫌悪に押し潰されるときは、朝目覚める存在なく寝床だけが残されていればいい、と思う。人は多かれ少なかれ、存在していること事態に苦痛を感じるのかもしれない。良くも悪くも、存在しなければ何もない。

消えてなくなればいいのに。
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